届かない距離 8

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届かない距離 8

「薬はきちんと飲ませてくださいね。それから熱が下がっても数日は安静にするように」 「先生、ありがとうございました」  溜息をつきながら、母さんが兄さんの部屋に戻って来た。 「流、ありがとうね。先生を呼んで来てくれて」 「いや、それより兄さん、ただの風邪なのか」 「それがねぇ……インフルエンザですって。よりによってこんな時に可哀想に」 「えっ……じゃあ京都はどうすんだよ?」 「行けっこないでしょ」  熱でぼんやりとしていた兄さんの肩が、その言葉に小さく震えた。  あぁ……唇を噛みしめ、目をぎゅっと瞑ってしまった。  ショックだよな。  本来ならば今日から京都へ行き、明日が受験日だった。  額に浮かぶ汗、顔色が悪いのに赤い顔。  熱が高くて苦し気だ。 「……すみません。母さん……迷惑かけて……」  掠れた声で兄さんが詫びた。 「何言っているの? この子はもうっ、そんなことは気にしないで、とにかくゆっくり休んで」 「……はい」  心を押し殺したような兄さんの声に、泣けてくる。  本当は悔しいはずだ。  泣き喚きたい程に。  俺が兄さんの立場だったら、手のつけようがない程暴れただろう。  それにしてもやはり悔やまれる。  昨日あんなことがなければ……  絶対に昨日ことが影響している。  風邪気味だったにせよ、こんなタイミングで高熱を出すなんて。  じっと兄さんのことを見つめるが、苦し気に目を閉じたまま眠っていた。 「やっと……翠は眠れたのね、さぁ流は学校に行きなさい。あんまりこの部屋に入っては駄目よ。インフルエンザだから、うつってしまうわ」 「……分かったよ。学校に行ってくる」  本当は行きたくなかった。ずっと兄さんの看病をしてやりたい。  だが、そんなわけにはいかないだろう。  兄さんに俺のことでこれ以上余計な心配かけたくない。  でも……学校で克哉と顔を合わせたら殴りかかってしまいそうだ。  自分を制御できる自信がないよ。  苦しい――  どうしてこんなに何もかも上手く行かないんだよ! ****  うなされていた。夢の中で……  僕は……執拗に追いかけてくる手から逃れようと身体を必死に揺すって逃回っていた。  それから京都へ行こうとするのに、電車にどうしても乗れない夢も見た。  寝汗をぐっしょりかいて目が覚めた。  現実の僕は布団で寝ていて、窓の外はいつの間にか暗くなっていた。  幾らか熱も下がったのか呼吸は楽になっていた。 「あぁ……本当だったんだ」  すぐ横に人の気配がして眼を凝らすと流だった。  流が布団に寄りそうように俯せで眠っていた。  もしかして、僕の看病をしてくれていたのか。  馬鹿だな。うつったらどうするんだ?  今すぐ起こしてそう言いたかったけど、やめておいた。  その代り、小さい頃のようにそっと背中を撫でてやった。  温かい温もり。  僕の流だ。  昨夜、僕を助けに来てくれた。  今朝、医者を呼びに走ってくれた。  流だけは守りぬきたい。  京都の大学は受験できなかったが、これで良かったのかもしれない。  どこか安心している自分がいた。  僕……まだ流の傍にいたい。  それが正直な気持ちだ。
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