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別れ道 2
「えっと……」
兄さんは明らかに気まずそうな顔をした。
その様子を察したのか、女性の方から先に話し出した。
健康的な肌に意志が強そうな目が輝いている。
黒髪が肩の上で、軽やかに揺れている。
兄さんとは正反対の、アクティブで快活な印象の女性だ。
俺は返事もせず不躾な視線で、その女性のことじっと観察してしまった。
「なるほど、この子なのね! あなたがよく翠くんが話題にしている弟さんでしょ?」
そう促されて、やっと兄さんも口を開いた。
「あっ……うん、そうだよ。弟だよ。流、あの……こちらは東京の夏光寺のお嬢さんで、燈子(とうこ)さんだよ。大学のゼミが一緒で、今日はうちの寺の春景色を見たいというので、一緒に帰って来たんだ」
おいおい「翠くん」って何だよ、馴れ馴れしい。
ふんっ、兄さんとゼミが一緒なのか。で、東京の大学から一時間も兄さんと二人きりだったのかよ。
その光景を想像した途端、頭に血が上るような怒りが沸き起こった。
だが俺ももう大学生だ。以前のようにこの場で癇癪を起すなんて馬鹿なことはしない。
ぐっと我慢して、思いっきり作り笑いを浮かべた。
「そうですか。じゃ、ごゆっくり」
踵を返しスケッチブックを持ったまま、俺は兄さんたちがやってきた寺の庭へと足を向けた。
駄目だ……兄さんと女性が並んでいる光景が目から離れない。
兄さんは高校まで男子校だった。
大学生になっても誰かをここまで連れて来ることはなかったのに……油断していた。
****
「弟さん怒ったみたいね」
「えっ?」
「ふふふ。お兄さんのこと随分好きみたいね! 私を見る目が冷たかったわ」
燈子さんにいきなり核心をつかれた気がして、ドキリとした。
流が僕を慕ってくれるのは、小さい時からだ。
……僕がそうなるように仕向けた。
小さい頃、母から流の手を取ることを任された時からずっとだ。
僕は流を必要以上に可愛がり、甘やかして育てた。物心がつくと、流は僕だけの顔を見せるようになって、ますます可愛くてたまらなかった。
だが気が付くと、いつの間にか背も体格もすべて僕より一回りも大きく成長していて戸惑った。
あの高三の雪の日。
流に兄として面目の立たない場面を目撃され、しかも流に護ってもらうという事件が起きてしまった。
そこから僕は少し困惑している。
流は僕を兄として慕っているのか。
僕は流を弟として慕っているのか。
(まだ駄目だ……今は……まだお互いの心が整っていない。全てが台無しになってしまう。どうか慎重になっておくれ……)
あぁ、まただ。
最近、このことを考えると、頭の中に僕を戒める声が響く。
僕であって、僕ではない人からの警告だ。
出過ぎてはいけない。
思い過ぎてはいけない。
流は血を分けた弟なのだから。
封印しよう、この秘めたる想いは……
兄として出来ることに徹しよう。
深呼吸し、平静を装って答える。
「……そうかな?」
「そうね、少しブラコン気味かもね。くすっ、でも無理もないか。翠くんみたいなお兄さんがいたら……」
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