別れ道 3

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別れ道 3

 兄さんが連れて来た女性の、含み笑いにイラついた。  なんだよっ、余裕の笑みって奴か!  それにしても『夏光寺』といえば、俺でも知っている東京の大きな寺だ。だからなのか父さんとも顔見知りのようで、楽しそうに客間で歓談している様子も気に食わない。  甲高い笑い声が、庭まで聴こえてくる。 「あっ もうこんな時間、そろそろ帰らないと」 「翠、駅まで送ってあげないさい」 「はい、そうします」  やがて日が暮れる頃になって、来た道を兄さんがエスコートするように送っていく。少しずつ小さくなっていく二人の後姿を、俺は庭の片隅から睨むように見続けた。  見たくないのに、見てしまう。  二人が歩むのは、はらはらと桜吹雪が舞う世界。淡いピンクの色が、今の俺とあまりにも縁遠く、思わず目を瞑ってしまっった。 「兄さん……」  それでも俺の元に戻って欲しい。  人知れず声に出して、その名を呼んでしまう。  俺より背も低く華奢な躰の癖に、女性と並ぶとやっぱり兄さんも男だ。  エスコートするように歩く姿が、憎たらしいよ。  兄さんに無関心になれたらいいのに。  兄のことが「好き」という感情を捨てれたらいいのに。  どうして俺は、こんなにも兄のことが好きなのか。  この気持ち……兄さんが応えてくれない限り報われないのだろう?  こんなの……もういい加減に苦しいよ。 ****  その晩のことだった。  夕食を食べていると、父から意外な話が持ち上がった。 「夏光寺のお嬢さんは利発そうだったな」 「そうね、気立てのいいお嬢さんだったわ」  母も賛同している。 「そうだ、流、翠は五月の連休は、渋谷の寺に仏門修行で泊まり込みに行くことになったから、お前がこの寺をしっかり手伝いなさい」 「えっ! なんだよ。その話っ どこの寺だよ」 「今日いらしていたお嬢さんのご親戚のお寺が、どうも人手が足りないようで依頼があったのだ」 「はぁ? 兄さん、本気で行くのか」 「……うん、行ってみようかと。僕はこの寺しか知らないから他所も見た方がいいって、燈子さんにも言われて決心がついたよ。実は今日彼女をここに連れて来たのは、その話もあって」 「聞いてないっ」 「これっ、流、静かにしなさい。何をお前はそんなに怒っておるのだ?」 「くそっ」 「お前もこの寺の大事な次男坊だ。しっかり修行せねば、いい加減に」  普段は大学の方向も違ってすれ違いばかりだから、連休はゆっくり兄と過ごせると思ったのに……何でだよ!  もしかして、俺は兄に避けられているのか。  そう思うと思い当たる気もして、ぞくっとした。  自室で怒りに震えていると、兄が部屋にやってきた。  昔から俺が怒っていると、兄は必ず悩みを聞いて励ましてくれた。  だから今日も来てくれたのか。 「流、怒っているのか。僕の決断……」 「なんでだよ! ずっと一緒にいられると思っていたのに」 「流……ごめんな」  いやだ、謝られたくない。  だが俺が兄を兄と見てないと知ったら、この人は悲しむだろう。傷つくだろう。そう思うと、自分の気持ちをストレートにぶつけることなんて出来なかった。 「なぁ、落ち着いて聞いてくれ。流はいい住職になれるよ。僕よりもずっとリーダーとしての素質がある」 「え? 何を言ってるんだ? 兄さんがいるのに」 「流だって、この月影寺の男だ。寺を跡を継ぐ権利だってあるんだよ」 「一体なんだよ? どうしたんだよ? 兄さんは小さい頃からこの寺を継ぐために修行を頑張っていたじゃないか。変だぞ! そんなこと言い出すなんて」  その時になって、ハッとした。  兄さんはこんなに痩せていたか。  よく見ると顔色も悪く、心労でやつれたような暗い表情を浮かべていた。  俺は今まで一体何を見ていたのか。  高校を卒業してから浪人生活に入り、ずっと心が落ち着かず、兄をしっかり見ていなかったことを、この時になって猛烈に後悔した。 「に……兄さん、どうした? まさか……身体の調子が悪いのか。何かあったのか……」  兄の顔色が瞬時に悪くなったのを、俺は見逃さなかった。
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