別れ道 7

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別れ道 7

 気が付くと、僕は達哉の部屋で毛布に包まりガタガタと震えていた。  僕の記憶は、恐怖のあまり飛んでしまったようだ。 「翠……しっかりしろ! 気付いたか」  眼を開けた途端、達哉の心配そうな顔が飛び込んで来た。  僕の顔に何か温かいものが降って来る。  これは涙?  泣いているのか。  男気のあるお前が、こんなに激しく。 「達哉……僕は……なんでここに……」  あの後、どうしたのだろう?  胸の奥が思い出そうとするとズキンと痛い。  よろよろと身を起こすと、着ていたシャツのボタンがはじけ飛んでいたのが見え、発狂しそうになった。 「あっ、ああああ……っ」  頭が痛い。  割れるように。  冷静に応対しようと思ったのに、自分の頭を抱え込み、唸ってしまった。  泣き叫びたい衝動に駆られた。 「翠っ! 大丈夫か。他にも怪我があるのか。なんといっていいか……弟が……申し訳ないことをした」 「はぁ……はぁ……っ」  興奮して涙と嗚咽が止まらない。  だって僕はさっき、君の弟に……  何ををされたのか。何もされなかったのか。 「僕は……」 「翠っすまなかった。この通りだ」  ベッドの横に膝立ちしていた達哉がガバッっと土下座した。 「あの東屋で……僕は……」  その先を聞くのが怖い。  シャツを破かれ上半身が露わになり、すぐに克哉くんが僕に覆いかぶさってきて…… 「何もなかったというには……虫が良すぎるのは分かっている。ただ……寸でのところで無事だった。だがお前の男としてのプライドを大きく傷つけた。お前の胸の傷も、弟がやったんだな。俺は不甲斐ないよ。あの事件以来、見張っていたつもりだったのに、こんなことになるまで気が付かなかったなんて、最低の兄だ」  土下座した額を、畳に何度もこすりつけながら、達哉が苦渋の声で謝っていた  もう何がなんだか分からない。 「……克哉くんは」 「……病院だ」 「えっ、何故」 「俺が殴った。東屋で翠のシャツを破き押し倒しているあいつを見つけ、もう止まらなかった。滅茶苦茶に殴ってしまった。この手で……」  達哉が自分の手を見つめて、力なく笑う。  僕がされたこと。  達哉がしたこと。  何が正しくて何が悪かったのか、もうよく分からない。 「翠、それでも弟なんだ。血を分けた。両親にはまだ真実を話せていない。こんな弱い俺を……許してくれ」  それでも弟か……  いや……その気持ちは分かるよ。  僕だって、もし逆のことが起きたら、流を守れるだろうか。  誰かの悲しみの上に、弟を庇えるだろうか。  全ては試されている。  そんな気がした。  僕がこんな目に遭ったのも試練なのか。  弟を密かに想う気持ち。  心の奥底にしまわないといけないものがあるのを僕は気づいていた。  煙草の火を押し付けられるたびに、僕は流への想いに気付かされていた。  やましい心が悲劇を呼ぶのかもしれない。  このままでは、いつかとんでもない悲劇を生むだろう。  誰かが消えれば……この鎌倉からいなくなればいいのでは?  その時の僕には『退散』という言葉が浮かんだ。 「達哉……もういいから。僕は……」 「翠……きちんと話そう。これからのこと。克哉のことは、これから、きちんと両親にも話す。だから……どうか誠意をもって対応させてくれ」  達哉、君は実直な男だ。  中学高校と君の近くで親友として親交を深めた。  そんな君がこんなにも板挟みで苦しむ姿、見たくなかった。  僕という存在がなかったら、弟のことで君はそこまで悩まなかったはずなのに。  そう思うと、達哉のことをどうしても憎めなかった。  克哉くんが僕にしたことの罪は確かに重い。  僕の男としてのプライドは大きく傷つき、肉体的にも傷ついた。  あぁ……誰かを思いっきり恨めたらいいのに。  僕は周囲の人のことを考えると、そこまでの勇気が出ない。  恨めないんだ――  だから自分が犠牲になってしまえばいいと思ってしまう。  まさか僕を取り巻く『仏教』の教えが、こんなにも我が身を焦がすことになるとは。  仏教の六波羅蜜(参考資料。日蓮宗HP)  布施(施しをする)  持戒(戒をたもつ)  忍辱(耐え忍ぶ)  精進(努力する)  禅定(精神統一する)  智恵(真理をみきわめる)  これは、この悩み多きこの世界(此岸)から、仏の教えの真理を究め、仏道修行し悟りの境地(彼岸)に達するための道に必要な『修行』だと説かれている。  では、今日の出来事は『忍辱』なのか。  いかなる困難な状況を相手から与えられても耐え忍ばないといけない。  人から貶されたり侮辱を受けても、決して怒らずに我慢をしなくてはいけないとはこのことなのか。  辛いよ。  でも……これが修行の道だとしたら僕は甘んじて受け入れないといけない。  もう一度頭の中で復唱する。  自分の身体や命までも提供して他人を救うことを「布施」と言う。  そして清らかな生活を守ることを「戒」と呼ぶ。  困難に耐え抜くことを「忍辱」と。  こうした努力を積み重ね、修行を達成しようと努力することが「精進」だ。  ならば、僕は『精進する』ことを選ぶ。  僕が月影寺から去ろう。  僕が災いを招くなら、僕が去ろう。  それも修行の一つ。  綺麗ごとかもしれない。  仏様の教えに縋っているだけかもしれない。  僕は本心は……  ただひたすらに……流を守りたいだけ。  秘めたる真実の想いは、僕を勇気づける。  忍ぶ想いを抱えて、僕はここを出る! あとがき (不要な方は飛ばして下さい) **** 志生帆 海です。 今日の更新で、この「忍ぶれど…」という物語で書きたかったことを、やっと書けたような気がします。 翠の覚悟。 自分を辱めようとした相手を許すというのは、とても受け入れられないものだとは思います。ただ彼は幼いころから仏道に励み、将来住職として生きようと信念をもって生きてきた人なので、このような捉え方をしてしまうのです。 間違った判断だと思う方もいらっしゃると思います。ですが、どうか温かい眼で見てあげてください。 まだ彼等は若い。道を自ら誤ることもあるかなと…… 真面目で不器用な、それでいて強がりな翠を応援してもらえると嬉しいです。 「忍ぶれど…」も佳境です。 スターやスタンプ、ペコメありがとうございます。 辛い展開を書き切る更新の励みになっています。二人を幸せにしてあげたいので、頑張って更新していきます。
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