出奔 1

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出奔 1

 あれから、また季節が巡ってしまった。  兄さんの胸に傷をつけた相手のことは、とうとう話してもらえなかった。  何度も何度も問い詰めたのに。  絶対アイツなのに。  あれから兄さんは、明らかに俺を避けるようになった。  俺となるべく会わないようにしているのではと感じるほどだ。  何かに悩み苦しむ兄さんにどんなに手を差し伸べても、寂しく微笑むだけで俺には決して靡かない。  頑な心 解せない心を前に、俺は一歩も動けなかった。  何もかも、うやむやのまま、兄さんと俺の間にはどんどん溝が深まっていった。  もどかしい。  俺はもう21歳だ。  一浪したとはいえ、もう成人したのに……兄さんは絶対に俺を頼らない。  兄さんは23歳になり、都内の仏教大学を首席で卒業し、僧侶の資格を取るために東京の寺へ修行に行ったりと忙しい日々を送っていた。  秋の紅葉が美しい季節を迎えていた。  寺の庭の木の葉も赤く熟れたのどかな昼下がりに、俺を奈落の底へと突き落とすような爆弾が落とされた。 「はっ? 今、なんて言った?」 「……だから、翠はこの家を出て行くことになったのよ」 「なんだって? んなこと、何一つ聞いてねぇぞっ!」 「こらっ流。口を慎みなさい。いいか、もうこれは決まったことだ。翠は来年の五月には結婚することになった」 「へ? けっ……結婚? なんだって? なぜそんな急に!」  青天の霹靂だ!  いや違う。  予感……予兆はあった。  いつか兄さんが俺もこの寺も何もかも捨てて消えてしまうのではないかという……不吉な予感だった。  兄さんは今年も五月の連休も夏休みの大半も、この月影寺ではなく東京の渋谷区にある秋風寺という寺で過ごしていた。  そこは俺が大学一年の春に兄さんが連れて来た夏光寺の燈子という女性の従姉妹の寺だ。  くそっ! 最初から嫌な予感がした。  兄さんを奪われるような気がしていたんだ。 「どうして兄さんがこの寺を出て行くんだよ? じゃあこの寺はどうするんだよ」 「流、落ち着いて……私達だって驚いたのよ。あの子はこの寺を継ぎたくて頑張って来たと思っていたから……でも夏休みが終わってからあの子が真剣な顔で土下座して頼んできたのよ」 「なんと?」 「鎌倉から出たいと……何かここにいたくない理由があるのかしら? どんなに聞いても何も答えてくれなかったわ。あの子が自分から我が儘を言うのは初めてだったわ。修行のお世話になっていた秋風寺のご住職も翠を偉く気に入ってくださって、お嬢さんの婿として是非にと申し出が正式にあって……あちらは……うちよりももっと格式があって大きなお寺なのよ」  絶句した。  兄さんが寺を出て行くだって?  しかも結婚だと?  それって養子ってことなのか。  なんでだよ……  兄さんそれでいいのかよ!  今すぐ怒鳴り込みたい気分だ。 「兄さんはどこにいる?」 「今日も東京に行っていて、あっでもそろそろ帰って来る頃よ。あなた達、ねぇ……お願いだから喧嘩はしないで。流も潔く翠の覚悟を受け止めなさい。きっと何か深い理由があるのよ」  母の言葉が刺さる。  翠……もういい加減に話せよ。  正直に話してくれよ。  何が翠にそんな決断をさせる?  何が翠をそんなに遠くへ行かせるのか。  結婚なんて嘘だろう? ありえない。  翠がこの月影寺から消えるなんてあってはならないのに。  何故だ!  でも何故だか止められない  そう悟ってしまうのは何故だよ!  わからない。  俺はとにかく走った。  昔のように寺の庭を突っ切って山門を潜り抜け、長い石段を飛び降りて国道をまっすぐに走った。  翠っ  今すぐ兄さんに会いたい。  俺は、いつまでこの想いを忍べばいい?  まだなのか。  まだ駄目なのか。  結婚なんてしないでくれ!  行くな!  俺から離れるな!  そう叫びたいのに……
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