出奔 2

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出奔 2

 北鎌倉駅まで全速力で走った。  兄さんの決断が、どうしても、どうしても信じられなかった。  美しい紅葉なんて、悲しい程に目に入らなかった。  ただ……ただ、兄さんに会って、真実を聞きたかった。  俺は一体いつまでこんな状態でいればいいのか。  いつまで待てばいいのか。  そのことだけを、せめて教えて欲しかった。  北鎌倉駅では、電車を何本も見送った。  やがて兄さんがひとりでホームに降り立ったので、改札口で待ち構えた。 「えっ……流? どうした?」  ただならぬ形相の俺を見て、翠の肩がびくっと震えた。  その表情に胸がキリリと痛む。  違う。  こんな顔はさせたくない。  俺は兄さんを悲しませてはいけない。  幼い頃からの想いが強くなる。  最初は兄を慕う弟の気持ちだと思っていたが、それでは収まらないものに育ってしまった。  俺がいけないのか。  兄さんを、ちゃんと兄として見られなかった俺のせいなのか。  無言で固まる俺を促すように静かな声が響く。 「流、僕に……何か話があるんだろう?」 「兄さん……結婚するって本当か。ここを出て行くって本当か」  兄さんは、はっとした顔になった。 「……何で……どこで、それを?」 「父さんと母さんからさっき全部聞いた」 「そうか……うん……すべて真実だ」  兄さんがあまりに淡々と答えるので、俺はその冷静な様子に頭に血がのぼりカッとした。 「そんなこと、信じられない!!!」  大声で叫ぶと、周囲の人から視線を一斉に浴びた。  ただならぬ様子に、皆、心配そうだ。  兄さんがそれを察知する。 「流、落ち着いてくれ。なぁ……少し歩きながら話そうか」 「くそっ、来いよ」 「えっ?」  薄暗く人もまばらな夜道を、兄の腕を掴んでグイグイと歩いた。  納得できる理由を聞かせて欲しい。  いや納得できる理由なんていらない。  ただ、ここにいて欲しい。 「流……ちょっと待って、腕が痛いっ」  掴んだ腕に力は入りすぎたようで、兄は苦痛の表情を浮かべていた。 「悪かった……ここで少し話そう」  兄さんを通りから少し入った所にある公園に連れ込んだ。  ところが、そこで翠の様子が豹変した。  顔が青ざめ、ブルブル震えている。 「流……ここは嫌だ。もう帰ろう。帰らせてくれ!」 「なんだよ? 俺と話すのがそんなに嫌なのか。だから出て行くのか。みんな俺に押し付けて!」  気が付くと俺は翠の両肩を掴んで、勢いよくトイレの壁に押し付けた。 「あぁ……い、嫌だ! 離せっ」  翠は恐怖にガタガタと震えている。  怯え方が尋常じゃない。 「どうしたんだよ? 一体兄さんに何があったんだ? あんなに月影寺を継ぐって頑張っていたじゃないか」  兄さんの目はどろんと淀んでいた。  あんなに澄んでいた兄さんの眼に、今は力がない。 「流……僕は弱い。弱くて情けない。でも逃げるんじゃない。守りたいから行くんだ。信じてくれ。僕は流のことが大事だ。僕にしか出来ない道なんだ。これは」 「一体何を言っているんだよ? もしかして……誰かに脅されているのか。まさかまた克哉に?違うのか。ちゃんと話してくれよっ! 兄さん……お願いだから隠さないでくれ。隠されるのが一番辛いことを知っている癖に……」  悔し涙に濡れながら、兄の胸元に頭を埋めた。  もう俺のほうが身長も体格も上回っているのに、幼子のように兄の肩で泣いてしまった。  翠は背中に躊躇いがちに手を回して、無言で撫でてくれる。 「流、ごめんよ。僕は行かないといけない。お前が納得できないのは承知の上だ」 「どうしても……行くしかないのか」 「今はこれしか選べない。だから僕の代わりに月影寺を守って欲しい。流になら出来る。お願いだ」  涙が溢れてくる。  兄さんの顔がよく見えない。 「酷い兄だ。全部弟に押し付けて……逃げるなんて」 「その通りだ。僕は酷い奴だ。でも逃げるんじゃない。守りたいんだ……」 「もう……何を言っても無駄なのか」  兄の……    翠の腰を深く抱きしめる。  このまま何もかも投げ捨ててしまいたい。 「全部……薙ぎ倒したい」 「物騒だ」 「このまま、さらってしまいたい」 「馬鹿なことを……僕は流の兄なのに」 「もう……弟で……いたくない」  とうとう言ってしまった。  すぐに兄は苦しそうな表情を浮かべた。  やがて一呼吸置いてから、こう告げた。 「流は……僕の大切な弟だ。だから……もうそれ以上言うな。僕は結婚するのだから」 「嫌だ! だめだ」 「それでも行くよ。流にはいつも輝いていてもらいたい。僕は流の人生を守りたい」 「守ってなんて欲しくない!」 「いや……もう間違えるわけにはいかない。僕は求めすぎてはいけない。求めすぎたら……全部失ってしまう。永遠に……この世から……」 「一体……何を言っているんだ?」 「流、もう帰ろう。今の話は聞かなかったことにするよ」 「そんな……」  兄の答えは不可解だった。  何か、見えない誰かの思念に支配されているかのような返事だった。  どんなに兄に切実に訴えても、届かなかった。  兄の結婚話は、どんどん進んで行く。  もう止めることは出来なかった。
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