出奔 3

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出奔 3

 あの日を境に、兄とはほとんど口を聞かなくなった。  あの北鎌倉まで走った日。  兄を別れ行く恋人のように公園で兄を抱きしめてしまった日。  何もかも、今となっては全て儚い夢のようだ。  もう、やめよう。  翠は兄で、俺は弟だ。  それ以上にも、それ以下にもなれないのだから……  受け入れるしかないのか。  受け入れたくなんてないのに。  やがて季節は巡り、あっという間に五月になっていた。  今日は兄さんの結婚式当日だ。  なんて忌々しい日なんだろう。  正直、参列なんてしたくない、このまま逃げ出したい気持ちに駆られていた。  兄さん……どうして、その若さで、結婚しちまうんだよ!  早い、早すぎるだろう。  無謀だ。  兄さんは馬鹿だ。  とても祝いの言葉なんて出てこない。  口を開けば、きっと恨むような言葉で埋め尽くされていくだろう。  今時お見合い結婚して婿養子として出て行くなんて、あり得ない。  本当に酷い奴だ。  そんなにしてまで、この鎌倉から逃げたかったのかよ!  俺から逃げたかったのかよ!  そう思うとやるせない。 「流っ、いい加減に仕度は出来たの? 車の用意が出来たから早く来なさいっ」  母親がさっきから何度も呼ぶ声が疎ましい。  どうして、こんなことになった?  俺は何故、こんな悪夢なような日を迎えているのだろう。 「流兄さん? ここにいたのですか。 母さんが呼んでいますよ」  ひとり部屋でうなだれていると、久しぶりに実家に戻って来た丈がやってきた。  翠は23歳。  俺が21歳。  更に二つ下のこの弟は19歳だ。  こいつは、この春にストレートで医大に入学したばかり。弟といっても中学入学と同時に千葉の学生寮に入ったので、盆と正月しか顔を合わせない馴染みの薄い存在になっていた。だから久しぶりに会うのに余所余所しい空気に包まれていた。  もっとこの弟と懇意にしていたら、俺たちの長兄の酷い決断について話し合えたのだろうか。  兄さんを引き留めることが出来たのだろうか。  だが今更もう遅い。  兄さんの覚悟は決まってしまった。  東京の渋谷区にある秋風寺。  そこの一人娘との結婚が、今日決行されてしまう。  森 彩乃という女と結婚してしまう。  俺の兄さんを奪う相手が、心底、憎かった。 「流兄さんはそんなに思いつめて、一体どうしたんです?」 「はっ、お前はいいよな。我関せずって感じでさっ」 「……そんなことありません。事情がよく呑み込めないだけです。何故翠兄さんが突然寺を出て行くのか本当に分からない。こんなに早く結婚なんて……私だって信じられません」 「俺も分からない。認めたくない。行かせたくない」  つい弟にまであたってしまう。  本当にもう、何もかも嫌だ。 「ですが、もうすべて決まってしまい、今日は結婚式当日です。あの、まだ信じ難いのですが、流兄さんは反対しなかったのですか」  丈にとっては素朴な疑問だろう。  兄がこの月影寺を継ぐために幼い頃から人一倍努力していたのは、弟も知っていることだ。 「したさ! だが……聞いてくれやしない。馬鹿な奴さ」 「……」  丈はもともと幼い頃から周りに関心の低い奴だが、流石に今回のこの展開には何か思うことがあるようで、いつもの無表情ではなく、苦しげな顔を浮かべていた。 「もう遅いのですか」 「あぁもう無理だ」 「そうですか……なら仕方がないのですね」 「何?」  そんな簡単に言うなよと、怒鳴りたくなるのを必死に抑えた。 「これは、そうなる運命だったのかもしれません。ならば今は苦しくても受け入れるしか」 「はっ! お前に言われなくても分かっているさ。兄さんは兄さんが選んだ道を進む。何も間違えてなんていない。だが……」  弟の前で不覚にも悔し涙が浮かんで来てしまった。 「流兄さん?」  これ以上話していると、俺の翠への気持ちがバレてしまう。  慌てて俺は話を切り上げた。 「さぁ行くぞ、この目で見てやるぜ。兄の人生の門出とやらをさ」  兄の人生が流れていくのを、止める術はない。  だがいつか、いつか俺のもとに戻ってきてくれるのなら、その時は俺のものに。そんなあてもない一縷の望みに縋ることしか今は出来ない。  兄の結婚。  認めたくなんてない事実が俺を貫き、息を止めそうになっていても、受け入れるしかないことを悟った。  兄は俺を守りたいといったが、俺は兄を全身全霊で守れる男になりたい。  いつの日か兄が戻ってきてくれる日のために、俺は自分を磨く。  今は手放すが、きっと必ず手に入れる!  そう自分を鼓舞するが、現実は……  今はなにも掴めない。  掴むどころか、手が届かない遠い場所に行ってしまう。  俺の翠。  穢れないみどりの羽。  翡翠ヒスイのような青緑色。  山・草・葉など汚れない青みどりのもの。  みんなあなたのこと。  穢れなき緑が似合う人。  実の兄なのに、憧れを通り越した愛をずっと秘かに抱いていた。  俺だけの翠なんだ。  どこにも、誰にもやりたくないのに、何故、結婚してしまうのか。  明日から俺は、更に報われない想いを抱いて、生きていくことになる。 「翠……」  いつかそう堂々とその名を呼べる日がくるのだろうか。  いつまで待てば、報われるのだろうか。  忍ぶれど  色に出でにけり わが恋は  物や思ふと 人の問ふまで  (平兼盛)  もう隠しきれない。  この忍ぶ恋。  狂おしいほどの切なる想いが募っていく。  ただひたすらに……今は胸が苦しい。  翠がいない世界で、息をしていくことが……辛い。                           『出奔』了
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