別離の時 5

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別離の時 5

 微かな呻き声が隣室から聞こえ、目が覚めた。 「兄さんっ?」  つい習慣で兄さんがうなされているのかと思い、飛び起きてしまった。  だが次の瞬間、激しく後悔した。  違う、違う!  この声は……  くそっ、最低最悪だ。  思わず耳を塞ぎたくなった。  兄さんたちが睦あっている声だった。  小刻みに聞こえる高い女性の声。  この声を彼女に出せているのが、兄さんだと思うと腸が煮えくり返る気分だった。  一分、二分……時が過ぎるのが、遅すぎる。  暗闇に浮かぶのは、裸体の男女の絡み合う姿。  聞くな、見るな、想像なんてするな!  そう思うのに、わざと深く暗い穴を覗くように、わざわざ自分を傷つけるような行為に出てしまう。  俺の……  俺の兄さんだ!  俺の翠だ!  どけよ!   気安く触れんな!  そう叫びたくなる衝動が、喉元までこみ上げ、手で口を塞いだ。 「うっ……」  気持ち悪い。こみ上げてくる吐き気、恨み、憎しみ。  こんな感情を兄さんに抱くなんて、抱きたくなんて、なかったんだよ!  兄さん……  どうして結婚して家を出た?  なんで俺の部屋の隣で、女を抱く。  兄さん、あなたは俺のこと、何も思ってないのか。  兄さん、兄さんっ  発狂しそうだ! もう!  これ以上はダメだ。  やめろーーーーー!!!  俺をあざ笑うように浮かぶ三日月を睨みながら慟哭した。  布団を頭まで被り、何も見えない聞こえない姿勢を取った。  子供の頃、いつもそうしていたように丸まっていく。  何も聞こえなくなると、不思議な感覚が宿った。  俺はいつしか、彼女を兄さんに見立て、俺が兄さんを抱く錯覚に陥っていた。  あぁ、いよいよ気が狂ったのか。  兄さんを想い過ぎて。  俺の欲望はこんなにも汚いのか。  血のつながった兄弟で抱くものじゃないものを抱いている。  だがこの思い、過去から突き動かされるような想いが、俺を占めていく。  俺は……想像で……とうとう兄を抱いてしまった。  今までだって散々兄を想い抜いてきたが、それとこれとはわけが違う。  兄を裸に剥き、俺の腹の下に組み敷いて、男女の交わりと同じことを、しでかした。  放出した生温い白濁のものは、誰もいない敷布団へと散っていった。  それを見て、むせび泣いた。  翠を汚した。  兄を汚した。  でもこれが俺の本当の気持ちなんだ。  虚しい……行先のない気持ちはどこへ持っていけばいい? **** 「……おはよう流」  翌朝、洗面所で兄とすれ違った。  昨日自分がしでかしたことを思い出し、まともに兄の顔を見られなかった。  思わず顔を背け、無視した。  すると兄さんは小さな声で詫びた。 「流……昨夜はすまなかった」  何を殊勝に詫びる?  兄さんは結婚していて、自分の奥さんを抱いただけだ。  見せつけんなよ。  そう言ってやりたいのに、そんな言葉の欠片すら発せられない。  俺は小さな人間だ。  もう兄さんの可愛い弟には戻れない。  前のように接することは出来ない。  俺の頭は、兄さんを犯すことでいっぱいだからな。  こんな情けない奴に近づくな!  俺も……もう兄さんに近づかない。  これからは、あなたを徹底的に拒絶する。  俺の様子がおかしいと思ったのか、兄さんは心配そうな顔で、俺の肩に触れようと手を伸ばしてきた。 「流……どうした?」 「……」  俺はそれを無言で振り払った。  兄さんの手は、宙を彷徨う。  途端に兄さんの目に哀しみが宿る。  だが、もう何もしてやれない。  俺には何も出来ない。  兄さん……あなたのことが、好き過ぎて。
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