父になる 1

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父になる 1

 彩乃さんの陣痛に付き添って、明け方病院にやってきた。  最初は微弱だった陣痛も時間と共に徐々に強くなり、ようやく彼女は分娩台へと移動した。  僕は分娩台前の待合室で、両手を固く握りしめていた。  窓から差し込む太陽は、いつの間にか橙色に染まっていた。 「もう夕方だったのか……」  陣痛で苦しむ彼女の腰を擦ったり、励ましたりと……ここまで怒涛の時間だった。  人はこのようにして母親に産んでもらうのか。    神秘的だ。 「翠、ここにいたのね」  声の方向を見ると、実家の母親が立っていた。  そうか、北鎌倉から駆けつけてくれたのか。  顔を見て安堵した。  男の僕だけでは何の役にも立たない気がして、実家の母親が来てくれたのは、心強い。 「母さん、来てくれたのですか」 「お疲れ様。もう一息みたいね」 「ええ……」 「翠も疲れたでしょう」 「あ……はい……初めての経験だから」 「そうよね。よく頑張ったわ。あっ流、何してんの? こっちに来なさい」  僕の身体は、ビクッと『流』の名前に過剰に反応してしまった。  まさか……流がここに来てくれたのか。 「母さんね、気が動転していたから、流に車を運転してもらったのよ。予定日よりもずっと早かったから、まだ心の準備が出来てなかったわ」 「……そうだったのですか」  僕は流を探すが、流は僕を探してはいなかった。  とても残酷なことだ。  あんなに僕を慕って懐いてくれた彼が存在しなくなってしまった。  流は窓の外を睨むように廊下に立っていた。  僕はその横顔をじっと見つめ、酷く寂しい気持ちになった。  顔も会わせてくれないのか、もう僕とは…… 「あー 翠もいよいよお父さんになるのね。私はおばあちゃんね。ふふっ感慨深いわ。予定通り男の子なのかしら? 楽しみだわ」  母の顔は期待に満ちていた。  しっかりしろ翠。僕はもうすぐ父親になるんだ。気持ちを立て直さなくては。本当にどうして僕はこんなにも流のことが気になってしょうがないのか。こんな大切な場面だというのに。  その時忙しなくドアが開き、看護師さんが飛び出してきた。  扉の向こうから「おぎゃーおぎゃー」と力強い赤ん坊の声が響いた。  あ……これが……僕の息子の声なのか。  産声なのか。 「おめでとうございます! 元気な男の子のご誕生です! お父さんはどうぞ中へ」 「あっはい」  促されるままに、マスクやエプロンのようなものを着て、消毒して部屋に入ると、産まれたばかりの赤ん坊の臍の緒を切るところだった。  母親との繋がりを断って、この世に一人の人間として誕生する瞬間だ。  真っ赤な身体で必死に泣いて呼吸しているその姿に、純粋に感動した。 「薙……」  用意していた名前をそっと口に出してみると、とてもしっくりきた。 「君は薙だ……君が薙だ」  必死に何かを掴もうとしている楓よりも小さな手。  遠い昔……こんな手をした弟の丈の誕生を、僕は流と手をしっかり繋いでガラス越しに見つめていた。  そんな僕が今度は父親の立場になるなんて、感慨深いものだ。  彩乃さんの次に、僕の胸にやってきた薙を恐る恐る抱きしめると、命の匂いがした。  赤ん坊って、こんな匂いがするのか。  これが僕の息子の匂いなのか。  分娩台にいる上気した頬の彩乃さんと目が合った。 「……翠さん」 「あぁ彩乃さん、お疲れ様」 「はぁ大変だったけど、すごい達成感よ。ありがとう。どう? ナギくん可愛い?」 「もちろんだ」 「あなたに似てるのが一番嬉しいわ」 「そうかな?」  正直どちらに似ているのかに興味はなかったが、彩乃さんがとても満足そうにしていたので、良かったと思った。 「では処置をしますので、お父様は外でお待ちください」  促されて再び廊下に出ると、駆けつけた彩乃さんのご両親と僕の両親が嬉しそうに歓談していた。いい光景だと思った。だが、その輪から外れて……流がひどくつまらなそうに廊下の壁にもたれているのを見つけてしまった。  どこまでも冷たい横顔だ。  今なら、話しかけたら応えてくれるだろうか。  僕は流と話したくて仕方がない。  生命の誕生の純粋な感動をお前にも伝えたい。  気を出して僕は流の前に立った。 「……流」 「……兄さん」  流は久しぶりに目を合わせてくれた。  だがその目はもう以前の流の明るい眼差しではなく、冷たいものだった。嫌な予感しかしない。 「……赤ん坊の名前なんてつけた?」 「あ……(なぎ)と」 「へぇ、俺は兄さんに薙ぎ払われたから丁度いいな」  流は歪んだ笑顔を浮かべた。  こんな表情をするなんて―― 「……流……僕は……けっして……そんなつもりじゃ」 「どうでもいい! もう勝手にすればいい」  まともな会話は成立しない。  もうあのおおらかで優しい流はどこにもいない。  どこを探しても見つからない。  流と話せば話すほど、僕の心は抉られていく。  それだけのことを僕は流にしてしまったのだ。  辛いよ。分かっていたけど、心が痛い。  心が悲鳴を上げている。     「翠、何をしているの? 早く彩乃さんのご両親に挨拶して」 「あっ……はい」 「母さん、俺は駐車場にいますよ」 「まぁ流、赤ちゃん見ないの? まったくあの子は最近変よね」  母の声を無視し背を向けて去っていく流の後ろ姿を、今の僕は見送ることしか出来なかった。  もう何もお前にしてやれない。  してやることがなくなってしまった。  もう僕は父親になったのだから、いい加減に覚悟を決めて歩み出さねば。    それでも、寂しいよ……流。
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