父になる 4

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父になる 4

 父になるということが、どういうことか。  その責任と役割の重さを、ちゃんと理解していたのか。  まだ24歳という若さで父となった僕には、その覚悟が足りなかった。  慣れない都会暮らし。  新居の高層マンションからの不安定な眺めは、僕をいつも不安にさせた。  苔の湿ったにおい。  木々から落ちてくる木漏れ日。  踏み鳴らすと心地よい砂利道。  慣れ親しんだ僕の庭が、ここにはなかった。  そして大事な弟の心は、ますます離れて行ってしまった。  僕は彩乃さんの実家の寺を手伝う約束で婿養子となり結婚したが、頑張ろうという気持ちと裏腹に、毎日無気力な感情に包まれ苛まれていた。  そんな中でも小さな薙と暮らす幸せは、確かに感じていた。  薙は早いもので、九ヵ月になった。  最近はすっかりハイハイもお座りを出来るようになって、笑うと小さな乳歯が白く輝いて可愛く見えた。   「あば……あば」 「ん? なんだい? 薙……」  僕の顔を見つけるといつもニコっと笑って、小さな手を懸命に伸ばしてくれる。 「おいで、抱っこしてあげよう」  抱けば、ぎゅっと僕の上着を握りしめてくれる小さな手の力が愛おしい。  そのまま窓辺から眼下に広がる世界を見せてやる。  車が行き交う慌しい師走の光景を、ぼんやりと一緒に眺めていると、突然その静寂を破るようにドアが開いた。   「翠さん、準備出来た? ほらほら、もう出る時間でしょう。また、ぼんやりして!」 「あぁ、ごめん」 「運転、大丈夫? 私がする?」 「いや大丈夫だよ。彩乃さんは薙を頼む」    後部座席のチャイルドシートに薙を乗せ、その隣に彩乃さんが座る。  傍から見れば、どこにでもいる幸せそうな若い家族に見えるだろう。 「ふぅ寒い。なんだか雪が降りそうね」 「さぁ行こうか」 「それにしても赤ちゃん連れだと一泊だけでもこんな大荷物になるのね、月影寺に行くのは去年の秋以来だから、久しぶり」 「そうだね。あれから妊娠出産と忙しかったからね」 「……鎌倉は近いようで遠いわ」 「……そうかな?」  しっかりしろ。今日は年内最後の貴重な空いた週末だ。  薙に会いたいと願う僕の実家へ、久しぶりに家族で月影寺に行くのだから、気持ちを切り替えて楽しく過ごしたい。  だが嫌でも思い出してしまうのが、前回、月影寺に泊まった時のことだ。  昨年の9月下旬だった。妊娠の報告をしに行きたいという彩乃さんの願いで、結婚後初めて戻った月影寺。  そこで僕たち夫婦がしたことは、流を追い詰めることだった。  あんな風にあんな場所で彼女を抱くべきじゃなかった。  あの日の後悔は、今でも僕を苛んでいる。  あれから流とは、薙が生まれてすぐに一度だけ会った。あの日怒るように帰っていく背中を引き留めることも出来ず、見送ることしか出来なかった。    あれから数か月、流とは電話ですら話していない。  今日は会えるだろうか。  話してくれなくてもいい、せめて姿だけでも見せて欲しい。  流、僕たち、どうしてこんなにこじれてしまったのかな? ずっと仲が良い兄弟だったのに。  ずっと、弟が大好きでたまらなかった。  だが相手は実の弟だから、必要以上に愛し過ぎては駄目だ。ずっとそう戒めていた。  流のためにしたはずのことが全部裏目に出て、流を追い詰めていることを知りながら……成す術がなかった。  僕は馬鹿だ。  でもね、それでも流に会いたいよ。 「薙は寝ちゃったわ。ふふ、可愛いわね。どんどんあなたに似て来るから見ていて飽きないわ。そういえば弟さんは今日はいるのかしらね? あなたの弟さんって、私が嫌いなのかしら?」 「えっ……」  渋滞に巻き込まれると、彩乃さんが思いついたことを気ままに喋りだした。 「だって一度新居に来てくれた時も怒るように帰ってしまったでしょう。夕食でもって思ったのに、なんだか私に妬いているみたいだったし。あ……もしかしてあなたたち相当なブラコンだったの?」 「何を……」  この人は本当に自由奔放だ。  こんな風に思ったことをすぐに口に出せれば、ストレスも溜まらないのだろう。 「ふふっ、でも分かるな。私にもしも翠さんみたいなお兄さんがいたら、結婚するの許せなくて、相手の女性をずっと恨んでしまうかもしれないわ」 「まったく……彩乃さんは何を言うのかと思ったら。流は忙しいんだよ。弟は多才で着物の絵付けや陶芸と趣味も多く、それに寺の修行もあって忙しいんだよ」 「そうよねぇ、大事な実家の跡を継いでもらうんですものね! おかげで私は翠さんを手に入れられたわ。ただ、弟くん、いつも私のことを見る目がいつも冷たいから、気になるだけ」 「……」  彩乃さんに悪気はない。  それは分かっているのに、僕の心は深く沈んでしまった。  きっと今日も流は僕を避けるだろう。  そう思うのに……微かな期待を抱いて、僕は月影寺へと向かっている。  妻と息子を連れて家族と共に――  残酷なことをしている自覚はある。  だから心が痛い。  最近、とても、とても……痛いんだ。  
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