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父になる 6
「翠さん、翠さんったら! いつまでぼーっとしているの? 早くして」
三兄弟の楽しい情景は、そこで、ぷつっと消えてしまった。
彩乃さんの声で、一気に現実に戻された。
そう、これが今の僕の現実だ。
「待っていたわよ。彩乃さん、薙くん」
僕らは迎えに来た両親の歓待を受けながら、山門へ続く石段を上った。
苔生した緑の匂いが、立ち上っていく。
懐かしい。
ここはやはり僕の故郷だとしみじみと込み上げてくるものを、ぐっと噛みしめる。
碧色、青緑色……僕の名前の『翠』とは、この寺の庭からつけられたと母から聞いた。だからなのか、僕はこの色の世界に囲まれると本当に心安らかな気持ちになる。
だが今日はいつも僕の隣にいてくれた流がいないのが……辛い。
到着すると母屋の居間に通されて、すっかり客人のような扱いに戸惑ってしまった。
早速彩乃さんに呼ばれる。
「翠さん、ちょっといい? 授乳をしたいの。部屋はどこを借りたらいいかしら?」
「分かった。母さんに聞いてくる」
「母さん、今日はどこに泊まればいいですか。彩乃さんが授乳したいそうで」
「一階の『兎の間』(月影寺の客間の名称)に用意したわ。もうお布団も敷いてあるし暖房も入れてあるわよ」
僕たちが泊る部屋は、以前のように僕の使っていた個室ではなく、一階の客間になっていた。
良かった。もう流を苦しめなくいて済む。
「……そう、ありがとうございます」
彩乃さんを部屋に案内し、僕はまた居間に戻って来た。
期待を込めてドアを開けるが、やはり流はいなかったので、思い切って母に聞いてみた。
「あの……母さん、弟たちはどうしてる?」
「丈はいつものように大学の寮にいて年末年始も帰省しないそうよ。研究が忙しいそうなの。もうあのっ子ったら本当に変わってる。息子の顔を忘れそうよ」
「そうなのか。丈は頑張っているんだな。あの、それで流はどこに?」
母さんの表情が、一瞬強張った。
少し抑え気味なトーンで問い詰められてしまった。
「ねぇ、翠……あなたたち喧嘩しているの?」
「えっ」
「だってね、翠が帰省するって話したら、流ってば急に旅行に行くなんていって……そんな予定なかったのに……」
「じゃ……じゃあ流は旅行中なの?」
「そうなのよ。あなたたちはいつもべったりだったのにどうしたの? でもやっと兄離れ出来て良かったのかもしれないわね。帰宅は明後日だと言っていたわ。翠は明日にはもう帰ってしまうのでしょう? 久しぶりなのに会えなくて残念ね」
「……」
そうなのか、一気に脱力してしまった。
ずっと流が見当たらないとは思ったが、まさか旅行に行ってしまうなんて思いもしなかったよ。
そんなに僕のことが嫌いになったのか、つまり、もう顔も見たくないのか。
寂しさが募る帰省になった。
顔を合わせてくれなくてもいい。
笑ってくれなくてもいい。
贅沢は言わないから、ただ同じ屋根の下で、せめて過ごしたかっただけなのに。
すっかり意気消沈してしまった。
彩乃さんと薙を連れての初めての帰省に両親は大喜びで、少し早いクリスマスパーティーをした。イベント好きの母なので、寺なのにチキンやピザなどの洋風料理がずらりと並んでいた。やがて賑やかなパーティーもたけなわを過ぎ、彩乃さんは途中でぐずった薙を寝かしつけると言って先に部屋に行ってしまった。
僕は少しそのことにほっとした。
「翠はもう少し一緒に飲みましょうよ」
酒豪の母に誘われ赤ワインをぐいっと煽った。すぐに眠れるように早く酔ってしまいたかったのだ。ところが一口飲んだ途端にクラッと頭が揺れた。もう酔ったのか、猛烈に頭が痛い。
「あら……翠、あなたお酒に酔っているんじゃなくて、もしかして具合が悪いの?」
流石産みの母だ。僕の少しの体調の変化に気付くなんて。
「……実はさっきから少し寒気がして」
「まぁ大丈夫? 翠はお父さんになっても相変わらず風邪ひきやすいのね。心配だわ」
母の手がふと額に伸びて来た。気恥ずかしいが、本当に久しぶりに母に触れてもらうような気がして、ほっとした。
「やだ、熱が随分あるわ。いつから具合が悪かったの? 今日は自分の部屋で休みなさい。薙や彩乃さんに風邪をうつしたら大変だし、あなたもぐっすり眠りたいでしょう」
「はい。そうします」
「今、氷枕とお薬を用意するから早く寝なさい。もうそんなに体調が悪いのにお酒を飲むなんて馬鹿ね。悪化させるだけよ」
「何かあったら夜中でもいいから起こしてね。本当に一人で大丈夫なの?」
「ええ、一晩眠れば治ると思います」
ところが熱はどんどん上がっていくようだ。
まずいな……寒気で身体がブルブルと震えるのを感じる。
悪い夢を見そうだ。
遠い昔、僕はこの部屋で高熱を出したことがあったが、あの時はすぐに流が気が付いてくれ看病してくれた。朝までずっと傍にいてくれた。流の存在はとても心強く、薬よりもずっと効き目があった。
でも今は……流は僕から離れ、この家にすらいない。
それが現実だ。
流がいない。
僕の傍に……
胸が苦しくて、とても寂しい。
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