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父になる 11
ぎょっとして振り返ると、母が不審そうな顔で立っていた。
俺は慌てて立ち上がり、翠のパンツを洗濯機に放り込み、何食わぬ顔でスイッチを押した。
すぐにウィーンっとモーター音がして、洗濯機が動き出したのでほっとした。証拠隠滅って奴か。
「流? 今、何をしていたの?」
「なっ、なんでもない。それより、兄さん、また熱が上がりそうだったぞ」
「まぁ、そうなの。あの子は熱がなかなか下がらないし、高く出やすいのよね。可哀想に……今日はクリスマスなのに、ご馳走は無理そうね」
そうか……今日はクリスマスで、ローストチキンを焼くって騒いでいたっけ。でも病気の兄さんには、そんな食事は無理だろう。まだ食欲もなさそうで、ぐったりしていたしな。
「それなら俺が翠兄さんの夕食は作るよ。もっとあっさりしたものがいいだろう」
「そう? あなたが料理上手で助かるわね。早くから仕込んだ甲斐あったわね」
「あぁ任せておけ」
俺は仏法の方は苦手だったが、精進料理を作る手伝いだけは好きだった。
「なんだかんだいっても二人は仲良しね。母さん、ほっとしたわ」
母はさして気にしていないようで、そのまま台所に戻っていった。
俺はじっと自分の手を見つめた。俺の手はまだ兄さんのパンツの温もりを覚えていた。母に話しかけられなかったら、とんでもないことをする所だった。
さぁ、気持ちを入れ替えて夕食を作ろう。
兄さんのために、温かいおかゆを作ってやろう。それから鮭を焼いて、あとは……卵焼きは無理か。何かもっとさっぱりしたものがいいな。頭の中であれこれ考えていると、突然バタバタと兄さんが慌てた様子で階段を降りてきた。
「おい、なんで起きて来たんだよ!」
「さっきの僕の洗濯物はどこ?」
「とっくに洗濯機の中だ」
その声に打たれたように、兄さんは一気に廊下を走って洗濯機を一時停止して、びしょびしょに濡れたパジャマを勢いよく取り出した。ビシャッと水滴が兄さんに顔にかかった。
「おいっ、一体何してんだよ。濡れるぞ!」
「あ……その」
気まずそうに兄さんが項垂れる。
「ごめん……大事なもの入れたままだったのを忘れていて」
兄さんは濡れたパジャマの胸ポケットから、何かを取り出した。
見間違えでなかったら、それは小さなお守りだ。
あの色と大きさには、よく見覚えがあった。
あれは鎌倉を代表する学業の神様を祭る神社で俺が購入し、大学受験を迎える兄さんに贈ったものだ。
熱を出して京都の大学を受験できなくて……ひどく落ち込んでいた兄さんに渡した物だ。
「それ……俺があげたやつか」
「あっ……うん、そう。あの日これを貰ったら熱もすぐに下がったし、東京の大学に合格できたから、熱を出した時には肌身離さず持っているのが習慣になってしまって……恥ずかしいな」
「……そうか、ほらタオル」
本当は飛び上がりそうな程嬉しかった。だが悟られないように冷静に装った。
兄さんは俺を見放していなかったのか。
兄さんは俺をどう思っているのか。
問いかけてみたい。でも怖い。
俺はいつからこんなにも臆病な男になったのか。
兄さん限定だ。こんな弱っちい俺は。
「お守り……駄目になったか」
兄さんの手の平にはぐっしょりと濡れた緑色のお守りが載ってた。
「……乾かせば大丈夫かも」
「今度一緒に新しいのを買いにいけばいい」
「えっ……でも、それって」
兄さんは驚きの色を隠せないようだった。
「もういいから、早く上に行けよ。また熱出るぞ」
「あっ、うん、流……ありがとう。熱が下がったら、あの神社に一緒に行かないか。大銀杏はもう散ってしまったかもしれないが、きっと見事だろうね」
兄さんは目元を赤くして嬉しそうに微笑んでいた。
久しぶりに見る明るい笑顔に、こっちが恥ずかしくなった。
兄さんの美しい顔が、とんでもなく眩しかった。
どんなに突き放しても、兄さんは変わらない。
いつだって俺に優しさと愛情を与えてくれるから、俺はその意味を間違えそうになるんだよ!
ただの兄として弟を可愛がる純粋な気持ちからなのだろう?
俺が弟だからなんだよな。
けっして恋人にはなれない……
そもそも、兄さんは結婚して子供までいるんだしな。
浮かれるな、浮かれすぎるな。
だが、今なら兄さんはひとりだ。
嫁さんは、ここにはいない。
だから少しだけ、昔のように仲良く過ごしたい。
そう切に願ってしまった。
「あぁ、一緒に行こう。俺も楽しみだ」
俺の返事に、兄さんの笑顔が弾ける!
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