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父になる 12
その晩、兄さんはやはり高熱を出してしまった。
「はぁはぁ……」
息遣いも荒く、目も潤んでかなり辛そうだ。
母さんに頼まれ氷枕を持って部屋に入っても、朦朧としているようで焦点が合わない。
俺に気が付いてくれない。
くそっ! 兄さんの弱々しい姿に、胸が締め付けられる。
もし熱を出したのが、ここじゃなく東京の自宅だったら、奥さんはちゃんと看病してくれたのだろうか。
兄さんは夜になると熱が高くなるんだ。
気管支が弱いから、こじらせてしまうんだ。
氷枕で冷やすと幾分楽になるんだ。
寝汗をかきやすいから、まめに着替えさせてやるんだ。
そういうこと全部、全部、知ってるのかよ!
こんな苦しそうな兄さんを置いて帰ってしまうなんて、赤ん坊のためなのは分かるが、どうしても薄情だと思ってしまう。
鬱蒼とした気持ちで沈んでいると、母の能天気な歌声が階下から聞こえて来た。
「きっと君は来ない ~ ひとりきりのクリスマス~♪」
どうやら食器洗いをしながら、クリスマスソングを口ずさんでいるらしい。全く、ここは寺だっていうのに、洋風な生活が好きな母は毎年そんなことは無視してコテコテのクリスマスパーティーを開く。今晩もそうだった。
一昨年までは兄さんと一緒に、呆れながらも酒を交わしたのにな。
それにしてもせっかくのクリスマスなのに残念だ。久しぶりに実家でひとりなんだから、一緒に酒でも飲みたかったよ。
俺はそっと兄さんの枕元に座り、汗ばんだ額に手をあててから氷枕を取り替えてやった。まだかなり熱いな。日中は下がっていくらか元気そうだったのに、きっとさっき濡れた洗濯物なんて抱えるからいけないんだ。
兄さん馬鹿だ。あんなお守りを、後生大事に持っているなんて。
いや、そうじゃない。すごく嬉しかった。あの日のお守りをそんな風にずっと身に着けていてくれたなんて知らなかったからさ。
まるで密かに俺を頼りにしてくれていたようで、ぽっと心の奥底が灯るような心地だ。同時にどんなに突っぱねても、やっぱり俺は兄さんが好きなんだと実感した。
さっき庭から切り落とした松の枝を、窓辺に飾ってやった。
なぁ翠、覚えているか。
都内から北鎌倉に越してきた幼い頃、ふたりで庭でクリスマスツリーを探したことを。あの時は爺さんに「コラ! わしが丹精込めて手入れした大事な松の木を折りおって!」と、こっぴどく叱られたよな。
これは大丈夫だから安心しろ。これもなかなかの枝ぶりだろう?
兄さんだけのツリーだぞ。目覚めたら見てくれよ。松の枝には寺にあった白や赤の組み紐で飾りを編んでつけてやった。シンプルだが、結構それらしく見える。
少しだけでも、兄さんにクリスマス気分を味わって欲しい。
兄さんには何でも最上のものを提供したい。その役割を俺が担いたいと、ずっと願い続けた夢は無残に散ったのに、まだ諦めきれない。
どうして結婚してしまった?
もっと近くに、ずっと傍にいて欲しかったのに。
束の間の兄さんの帰宅は、俺に結婚式当日の虚しさを彷彿させ苦しめる。
兄さん……熱もないのに俺も身体が熱いんだ。
無防備に眠る翠。月明かりに照らされた熱で潤んだ顔を至近距離で見つめるだけで、下半身が痛くなる。
ぐっしょりと汗ばんだパジャマを着替えさせてやろうと声をかけてみた。
「……兄さん、パジャマ着替えられるか」
「うっ……」
苦し気に瞼を開く兄さんと眼が合ってドキッとした。
熱で潤んだ目。それは危険すぎる。
「流か……ごめん。また熱出して……僕は……情けない。本当に情けないよ」
「謝るな! 兄さんは何も悪くないっ」
寂し気な笑みが辛かった。こんな時に無理して笑うなよ。
頑張りすぎるな。辛い時は辛いと、嫌な事は嫌とはっきり言えよ!
そうしてくれ。
こんなんじゃ、きっと駄目になる。
近い将来、駄目になってしまう。
そんな不安に押し潰されそうになると、俺の握り拳に兄さんが優しく手のひらを重ね、包むように触れてくれた。
「あ……ツリー……綺麗だ。流が作ってくれたんだね。覚えているよ。あの日のツリー、流と一緒に何かをするのが僕は本当に楽しくて、嬉しくて……いつも……幸せだった」
その言葉に鼻の奥がツンとした。
俺を過去形にしないでくれ。
俺はここにいる、翠の傍にいる!
心の中で必死に叫んでいた。
すると兄さんは目を細め……
「だから……今日は流が傍にいてくれて嬉しい……本当に嬉しいよ」
あぁ、また俺は微かな希望を抱いてしまう。
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