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父になる 15
「兄さん歩けるか。しんどいならバスに乗るよ」
「いや、大丈夫だよ。今日は久しぶりに流と話しながら歩きたい気分だし」
病み上がりだが、兄さんの頬には赤みが戻って来ていた。久しぶりに血色の良い顔を見た。
そう言えば結婚してからの兄さんの顔色は、いつも青ざめていたような気がする。
それにしても、兄さんの美しく弧を描く柔和な顎の輪郭を、俺が贈ったベージュのマフラーが寄り添うように優しく包んでいるのが、似合いすぎて高揚してしまった。
「少し冷えるね」
そう言いながら俺のあげたマフラーに顔をパフっと埋めて行く様子が、堪らなく可愛い仕草に見えた。
兄さんのきゅっと引き締まった唇が、無防備にマフラーの内側を掠めて触れたのには参った。
まるでキスされたみたいに、俺の心臓が暴れ出したぞ。
おっ落ち着け。高校生じゃあるまいし!
なんだか昔に戻ったかのように、兄さんの行動の一つ一つに過敏に熱く反応してしまう!
そんな理由で……北鎌倉の月影寺から目的の神社までは、徒歩で向かうことになった。
「兄さんはこっち側を歩けよ」
「うん?」
二人並んでようやく通れる程の狭い歩道だ。
車道側を俺が歩き、兄さんには内側を歩かせた。
どうしても今日は並んで歩きたかった。
ここは、ずっと後ろ姿を見送ることばかりだった道だから。
俺の歩調に合わせているせいか息が上がっていく兄さんの横顔を盗み見ると、師走の凍てつく空気を吸い込んでは、ふぅっと吐いていた。
整った唇から次々に生み出される光景が、まるで白い霞みのようで幻想的に見えた。
この道が何処までも、ずっと続けばいい。
兄さんがもう結婚しているとか、父親になったとか、全部なくなればいい。
そんなことを願ってしまう始末だ。
俺はどうしてこうも兄さんを欲しくなるのか。
最近、心の奥底から湧き出る渇望した気持ちが酷くなってきている。ずっとずっと遠い昔からの無念が、心を占拠する時間が長くなってきている。
やがて大通りに出て、更に右手に曲がり直進すると、神社が見えて来た。
月影寺より遥かに大きな神社の神門へ続く階段を二人で並んで一歩一歩上った。登りきるとそこは高台になっていたので、日の光がぐっと近くに感じた。
兄さんの茶色の髪も、日光を浴び艶めいていている。
「ここに来るのは久しぶりだ。受験のお礼参りに来て以来かな」
病み上がりの身体に堪えたのか、額にうっすら汗をかいているのも、ゾクゾクする程色っぽい。参った! この一年、兄さんに極力会わないようにして封じ込めていた厄介な気持ちがムクムクと顔を出すじゃないか。
それから都内の大学に合格した兄が、お礼参りをしたいと言い出し、ふたりで来たことを思い出した。
今の俺の気持ちは、結局あの頃は少しも変わっていない。
高台から見下ろす鎌倉の街に向かって
俺は兄さんが好きだ!
俺のものにしたい!
と叫び出したい程に。
「流、何をぼんやりしているの? あっちの大銀杏を見に行こうよ」
軽やかな兄さんの声と共に、突然手をぎゅっと握られた。
幼い頃はいつもやんちゃ坊主だった俺がどこかに飛び出して行かないよう、兄さんが手を繋いでくれていた。
今は俺が兄さんを繋ぎ留めたい。
ここに── 俺の傍に。
樹齢六百年を超える大銀杏。
黄色く色づいた銀杏の葉は、もうほとんど落ちていたが、それが黄金色の絨毯のように、太陽の光を浴びて輝いていた。
「すごく綺麗だ。この世は美しい。なのに……どうしてお前はいないんだ」
「え? 兄さん。何言ってるんだよ? 俺はここにいるじゃないか」
「あっ……今、僕、変なことを言った。不吉なことを……どうして?」
兄さんは自分の放った言葉に怯えた表情を浮かべていた。だから俺は握った手に力を込めてやった。
ぎゅっと包みこむようにしてやると、兄さんの頬が少しだけ赤く染まったような気がする。
「僕は……やっぱり……流が傍にいないと駄目みたいだ」
吐息と共に吐かれたのは、聞いたことのない兄さんの弱音。
それは、俺にとっては甘い蜜。
弱っている兄さんを、俺が蕩けるまで甘やかしてやりたい。
心も身体も温めてやりたい。
そう願ってしまう瞬間だった。
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