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父になる 16
樹齢六百年の大銀杏が見守る中、俺と兄さんはコートの先っぽで、そっと手を繋ぎ、高台から眼下に悠然と広がる鎌倉の冬景色を見下ろしていた。
それにしても兄さんの手の温もりが、心地良すぎる。
この手で女を抱いた。赤ん坊を抱いたと思うと、もう触れてはいけない存在になったと感じ、ずっと近寄れなかったのに。
今は俺のすぐ隣にいて、しかも手を繋いでくれている。温もりを分かちあえる距離にいられることが嬉しくて、男泣きしそうだ。
俺はこんなにも兄さんに飢え、渇望していたのか。少しでも動いたら離れてしまいそうで動きたくなかった。
「くしゅっ……」
だが師走の北風は無情だ。病み上がりの兄さんが、鼻の頭を少し赤くしていたので流石にそろそろ潮時だと思った。
「そろそろ帰るか」
「えっ、もう?」
そう告げると、兄さんも名残り惜しそうな表情を浮かべるんだから参った。
おいっ、そんな切ない表情を浮かべんな。
このままどこかへ連れ去りたくなる。
どこかに、俺と翠だけの世界があればいいのに。
この世界の果てにでも──
「兄さんがまた風邪ひいたら、母さんに怒られるのは俺だぜ」
「……そうだね。流に迷惑かけるわけにいかないな」
「マフラーが取れかかっているぞ。兄さんは案外不器用だな。その巻き方じゃ用を成さないだろう。ほら巻きなおしてやるから貸せよ」
翠の襟元のマフラーが強風に煽られたせいで乱れていたので、巻きなおしてやろうと手にとった。
途端に翠の喉仏が露わになる。翠の細い首もと、項、鎖骨まで、何もかも丸見えになる。ほっそりと美しい顎のラインも。
「ありがとう、流」
そう喋る口の中にちらっと覗く赤い舌にさえ、ゾクゾクする。
俺は本当に何でこんなに実の兄を、やましい視線で見てしまうのか。
禁欲的な翠を乱すのは俺でありたい。
これは過去からの衝動だ。
俺をまっすぐ突きあげるように起こるのは、翠への思慕を通り越した、兄弟としてあってはならない行き過ぎた欲情だ。
その時、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。
煩悩に溺れていた俺の緩んだ指先のせいで、手に持っていたはずのマフラーが北風に攫われてしまった。
「あっ!」
あっという間に天高くマフラーが舞い上がり、そのまま足元の崖に迫り出した大木にひっかかってしまった。
くそっ! なんてことだ! 俺としたことが!
「兄さん、悪い。取ってくるよ」
足場が悪そうだ。少々危険を伴うが、せっかく俺が贈ったばかりのものだ。兄さんによく似合っていたし、兄さんも気に入っていたのだから、なんとしてでも取り戻してやりたい。
「流、駄目だ! 行くな!」
「大丈夫だって。ちょっと崖に降りて手を伸ばせば取れる距離だろう」
翠に背を向けて、崖を降りようとした。
その瞬間、ふわっと翠が俺の腰に手を回してきた。こんな風に後ろから抱きしめられたことがないので、動揺してしまった。
「なっ、どうしたんだよ」
「行くなっ! お前に何かあったら嫌だ! お前が消えてしまいそうで怖くなる!」
あまりに必死な声なので、気になって振り返ると、翠が真っ青な顔でブルブルと震えていた。
「おいおい兄さん、随分大袈裟だな。まるで俺が死ぬみたいなことを」
「うっ……駄目だ。流……そんな言葉を口にするな。僕は……僕は」
あまりに翠が狼狽えているので、こっちまで不安になる。まるで遠い昔、そんな悲しい別れがあったみたいじゃないか。
お願いだから、そんな顔すんなよ。俺が翠を置いて何処かに行くなんて、あるはずないじゃないか。置いていったのは兄さんだろう?
翠は軽いパニックを起こしたように、明るい色の瞳からぽろぽろと涙を零す始末だ。
こんな時でも俺は……
翠が俺だけを考えていてくれる。
俺だけを見てくれていることに喜びを感じてしまう。
もし俺に本当に何かあったら、実の兄に欲情してる俺のせいだ。
因果応報だ。
「落ち着けって、兄さん。ほら、もう泣くなよ」
「うっ……うっ……」
幼子のように涙を零す翠の頭をそっと抱き寄せ、肩に乗せて?そのまま背中に手を回し擦ってやる。
「ごめんよ。僕……病み上がりのせいかな。感情がコントロールできないみたいで、もう父親なのに恥ずかしいな。これじゃ兄としても父としても失格だな」
まだそんなことを言うのか。こんな頼りなく儚げな背中で、父として夫として奮闘する翠は健気だ。
もう疲れただろう。
俺の元に戻って来いよ。
戻って来たらいいのに──
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