父になる 16

1/1
前へ
/239ページ
次へ

父になる 16

 樹齢六百年の大銀杏が見守る中、俺と兄さんはコートの先っぽで、そっと手を繋ぎ、高台から眼下に悠然と広がる鎌倉の冬景色を見下ろしていた。  それにしても兄さんの手の温もりが、心地良すぎる。  この手で女を抱いた。赤ん坊を抱いたと思うと、もう触れてはいけない存在になったと感じ、ずっと近寄れなかったのに。  今は俺のすぐ隣にいて、しかも手を繋いでくれている。温もりを分かちあえる距離にいられることが嬉しくて、男泣きしそうだ。  俺はこんなにも兄さんに飢え、渇望していたのか。少しでも動いたら離れてしまいそうで動きたくなかった。 「くしゅっ……」  だが師走の北風は無情だ。病み上がりの兄さんが、鼻の頭を少し赤くしていたので流石にそろそろ潮時だと思った。 「そろそろ帰るか」 「えっ、もう?」  そう告げると、兄さんも名残り惜しそうな表情を浮かべるんだから参った。  おいっ、そんな切ない表情を浮かべんな。    このままどこかへ連れ去りたくなる。  どこかに、俺と翠だけの世界があればいいのに。  この世界の果てにでも── 「兄さんがまた風邪ひいたら、母さんに怒られるのは俺だぜ」 「……そうだね。流に迷惑かけるわけにいかないな」 「マフラーが取れかかっているぞ。兄さんは案外不器用だな。その巻き方じゃ用を成さないだろう。ほら巻きなおしてやるから貸せよ」  翠の襟元のマフラーが強風に煽られたせいで乱れていたので、巻きなおしてやろうと手にとった。  途端に翠の喉仏が露わになる。翠の細い首もと、項、鎖骨まで、何もかも丸見えになる。ほっそりと美しい顎のラインも。 「ありがとう、流」  そう喋る口の中にちらっと覗く赤い舌にさえ、ゾクゾクする。  俺は本当に何でこんなに実の兄を、やましい視線で見てしまうのか。  禁欲的な翠を乱すのは俺でありたい。  これは過去からの衝動だ。  俺をまっすぐ突きあげるように起こるのは、翠への思慕を通り越した、兄弟としてあってはならない行き過ぎた欲情だ。  その時、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。  煩悩に溺れていた俺の緩んだ指先のせいで、手に持っていたはずのマフラーが北風に攫われてしまった。 「あっ!」  あっという間に天高くマフラーが舞い上がり、そのまま足元の崖に迫り出した大木にひっかかってしまった。  くそっ! なんてことだ! 俺としたことが! 「兄さん、悪い。取ってくるよ」  足場が悪そうだ。少々危険を伴うが、せっかく俺が贈ったばかりのものだ。兄さんによく似合っていたし、兄さんも気に入っていたのだから、なんとしてでも取り戻してやりたい。 「流、駄目だ! 行くな!」 「大丈夫だって。ちょっと崖に降りて手を伸ばせば取れる距離だろう」  翠に背を向けて、崖を降りようとした。  その瞬間、ふわっと翠が俺の腰に手を回してきた。こんな風に後ろから抱きしめられたことがないので、動揺してしまった。 「なっ、どうしたんだよ」 「行くなっ! お前に何かあったら嫌だ! お前が消えてしまいそうで怖くなる!」  あまりに必死な声なので、気になって振り返ると、翠が真っ青な顔でブルブルと震えていた。 「おいおい兄さん、随分大袈裟だな。まるで俺が死ぬみたいなことを」 「うっ……駄目だ。流……そんな言葉を口にするな。僕は……僕は」  あまりに翠が狼狽えているので、こっちまで不安になる。まるで遠い昔、そんな悲しい別れがあったみたいじゃないか。  お願いだから、そんな顔すんなよ。俺が翠を置いて何処かに行くなんて、あるはずないじゃないか。置いていったのは兄さんだろう?  翠は軽いパニックを起こしたように、明るい色の瞳からぽろぽろと涙を零す始末だ。  こんな時でも俺は……  翠が俺だけを考えていてくれる。  俺だけを見てくれていることに喜びを感じてしまう。  もし俺に本当に何かあったら、実の兄に欲情してる俺のせいだ。  因果応報だ。 「落ち着けって、兄さん。ほら、もう泣くなよ」 「うっ……うっ……」  幼子のように涙を零す翠の頭をそっと抱き寄せ、肩に乗せて?そのまま背中に手を回し擦ってやる。 「ごめんよ。僕……病み上がりのせいかな。感情がコントロールできないみたいで、もう父親なのに恥ずかしいな。これじゃ兄としても父としても失格だな」  まだそんなことを言うのか。こんな頼りなく儚げな背中で、父として夫として奮闘する翠は健気だ。  もう疲れただろう。  俺の元に戻って来いよ。  戻って来たらいいのに──  
/239ページ

最初のコメントを投稿しよう!

882人が本棚に入れています
本棚に追加