父になる 18

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父になる 18

 北鎌倉の月影寺へ帰る道すがら、細い道になると兄さんは自然と身体をずらして、俺の後ろを歩いてくれた。  そのことに猛烈に胸が高鳴った。  俺がずっと後ろから見つめていた兄さんが、今は俺の背中を見つめて歩んでくれることが嬉しくて、ますます帰したくない、愛おしい人だと思ってしまった。  だが淡い夢のような時間は、そう長くは続かなかった。 「あの車……」  月影寺の山門右手の駐車場を見つめて、兄さんが小さな声で呟いた。    嫌な予感は的中してしまった。  寺に不釣り合いの真っ赤な車が停まっていた。  山門を潜り、母屋に入るなり、案の定、女性の匂いがした。  香水をつけているとかそういうのではなく、気配が匂うっていうのか。 「翠さんったら、遅い!」  いきなり廊下から現れたのは、兄さんの奥さんの彩乃さんだ。 「彩乃さんがどうして、ここに?」 「もう、どれだけ待たすつもりなの? せっかく迎えに来てあげたのに」 「あっ、ごめん」  兄さんが動揺しているのに、お構いなしに急かし立ててくる。 「さぁ早く帰りましょう。薙を実家に預けてきたから、すぐに戻らないといけないのよ。授乳の時間もあるんだから、察して頂戴」 「待って……だが、そんな急に」 「何言っているの? もうインフルエンザも治ったのでしょう。だったら東京に戻って来て頂戴。私一人で薙の面倒を見るのは大変なんだから」 「あっ、そうだよね。ごめん。彩乃さんに任せきりで……」  兄さんの顔が、どんどん青ざめていくのが手に取るように分かった。  おい、どうして嫁さんにそんなに気を遣う? こっちだって病み上がりなんだぞ。   「そうよ。年末でただでさ気忙しいのだから、治ったら自分からすぐに戻ってくるのが筋でしょう。それが何? 弟さんと呑気に観光しているってお義母さんに聞いて呆れてしまったわ」 「彩乃さん、そんな言い方はしないでくれ。流は僕に付き合ってくれたんだ」 「はいはい。可愛い弟ちゃんですものね。あら、なあに? そのマフラー」 「あっ、これは……」  押され気味な兄さんが、はっとした表情で俺があげたマフラーに手を伸ばすよりも早く、彩乃さんがマフラーを剥ぎ取ってしまった。 「こんな淡い色なんて、あなたに全然似合わないわ! 私があげた物をちゃんとしてよ!」  なんて気性の荒い嫁さんなんだ。  これが本性なのか……  兄さんはいつもこんな調子に付き合ってるのか。  くそっ! 俺の兄さんを馬鹿にしやがって。  男だったら、ぶん殴っているところだ!  手のひらをギュッと握り締めて必死に耐えた。  ここで暴れたら駄目だ。  兄さんに迷惑がかかるだけだ。  もう、そういうのは卒業したはずだ。    足元には、俺がついさっき贈ったばかりの、俺が拾ってあげたばかりの優しいベージュのマフラーがはらりと落ちていた。  兄さんの柔和な顎の輪郭をベージュのマフラーが寄り添うように優しく包んでいるのが似合いすぎて高揚したのは、ついさっきのことなのに、何故こんな酷い仕打ちを受ける?  やはり兄さんはもう嫁さんのもので、永遠に俺には手が届かない人だ。  それを痛感するしかなかった。 「……流……ごめんよ。僕……もう帰るね」  そっと肩に置かれた手を容赦なくピシャッと振り払ったのは、この俺だ。  もう二度と優しい顔なんてするもんか。  兄さんなんて……兄さんなんて、もう知るか!!  父親なんだろう? 夫なんだろう?  もう俺の兄でも、なんでもない存在だ!  こんな悔し想いをするなら、優しくなんてしなきゃよかった。  もう二度と優しくなんてしない!  俺の知らないところで、勝手に生きて行けばいい!  サヨナラだ。もう永遠にサヨナラだ。兄さん……  兄さんから無言でスッと離れた。  本当は心で泣いていた。  こんなに好きなのに……  どうして俺は好きになっていけない人を、こんなに好きなのだろう。  あぁ、とても惨めだ。  兄さんは俺をどこまでも惨めにする人だ。  決して叶わない恋だと知っているから、もう限界だ。  もう離れたい。  今日という日を境に、俺は兄さんを今度こそ完全に遮断する。  兄さんをギロッと睨んで、俺はその場から去った。 「流、待って、待ってくれ!」  兄さんの悲痛な声に、絶望という二文字が過った。                            「父になる」了
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