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忘れ潮 1
あの年末の寂しい別れから、僕は流に完全に避けられるようになった。
翌年も、その翌年も……
何度か北鎌倉の実家へ薙の成長を見せるために帰省したが、流は僕たちの到着を待たずに、いつも旅に出ており、不在だった。
「翠……残念だけど今日も流はいないのよ。あの子はね、最近はまるで風来坊のようにふらりと一カ月以上も海外に行ってしまうの。だから待っても帰って来ないのよ。今回は……インドにいるのよ」
「インド? そんな遠くに」
母がそっと教えてくれた。
僕が人知れず、流を探しているのを母だけは知っているようだ。でも母はそのことについて何も追及しなかった。
「本当に何故こんなことになってしまったのかしら……人一倍あなたを慕っていた弟なのに」
流が僕と会うことを、すれ違うことすら避けているのは、もう母の目にも一目瞭然だった。
だから帰省する度に、しくしくと胸が痛んだ。
とうとう隠すことも出来なくなり、あからさまに意気消沈する僕を見た彩乃さんが、ある日こう言った。
「やっとあなたの弟さんは兄離れできたのね。翠さん、こう言っては何だけど、あなたたち、ちょっと異常だったわよ。特に流さんのあなたへの態度には兄弟愛以上の熱を感じていたの。だいたい翠さんも弟さんに甘すぎるしね」
彩乃さんの何気ない言葉に、ゾクッと背筋が凍った。
それは決して悟られてはいけないことだ。
僕の心の中で、猛烈な危険信号が灯った。
遠い昔の記憶がまた過る。
……
僕が求めすぎたからいけないんだ!
僕のせいで彼が窮地に立たされてしまう。
一体どこで僕は過ちを犯したのか。
彼への気持ちは外に漏れないように気を付けていたはずなのに、何故だ。
生まれ変わったら、今度こそ絶対にばれないように細心の注意をしなければ……
そうしないとまた彼が消えてしまう
僕の前から。
……
過去からの警告が、僕を支配する。
****
翌朝目覚めると、視界が少し変だった。
「何?」
寝室に差し込む朝日が、黒い影のようなもので縁取りされていた。
ズキッ──
その次の瞬間、頭が割れるように痛くて、思わず呻き声をあげてしまった。
「あら翠さん、起きたの? どうかしたの?」
「いや……何でもないよ」
洗面所に平静を装って行き、鏡をじっと見つめた。
瞳に異常があるわけではなさそうだ。
ちゃんと隅々まで見えていることに、安堵した。
だが……さっきのは何だったのか。
じっと鏡を訝し気に見つめていると、彩乃さんの影が過った。
まだパジャマ姿だった、お互いに……
「翠さん日曜日なのに珍しく早起きね。薙はまだぐっすり眠っているわ。ねぇいいでしょう? 抱いて」
「……朝から?」
「そうよ。平日は私も仕事で遅くなって疲れているから、そういう気分にならないのよ」
「……分かった」
妻の欲情のままに、僕は彼女を抱くことにしている。
生理的反応はする。
男だから。
しかし抱けば抱くほど身体に違和感を覚えていた。
違う……これは間違っていると……
頭が痛い、とても痛い。
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