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忘れ潮 2
「翠さん、コーヒー運んで」
「あぁ」
彩乃さんから、熱いマグカップをカウンター越しに受け取ろうと手を伸ばした。
ところがタイミングがずれて、マグカップはそのまま床に落下してしまった。
ガシャン──
熱々のコーヒーが僕の足にピシャッとかかり、マグカップは割れて粉々だ。
「やだ! もう何をしているの? 薙が起きちゃうじゃない」
「ごめん。僕が片付けておくよ」
「もう、翠さんは……いつもどこかぼんやりしているわよね。はぁ……後は任せたわよ」
「分かった」
すぐに隣室から薙の声が聞こえてきた。
彩乃さんの言う通り、どうやら起こしてしまったようだ。
「ママー ママー どこぉ?」
薙はここ数日風邪で高熱を出して、大変だった。
ようやく昨日で熱も下がり、今朝はうなされずにぐっすり眠れていたのに……ごめん。
割れた陶器の破片を掴もうとすると、また頭が割れるようにズキっと痛んだ。
「あっ……」
今も一瞬視界が霞んだ?
そうだ、さっきも視界がぼやけてマグカップを受け取れなかったんだ。
一体、僕の身体に何が起きているのか。
熱いコーヒーを被った足先がヒリヒリと痛み、蹲ったまま動けない。
しっかりしろ、翠……この位の痛み、胸の下にこびりついた痛みに比べたら比ではない。
結局ケロイドのように残ってしまった火傷の傷痕を、結婚初夜、彩乃さんに初めて見られた時、軽蔑にも似た視線を浴びた。
(やだ……翠さんって見かけによらないのね。こんな所にまさかの根性焼き?あなたがそんなことするなんて、思いもしなかったわ。ちょっと気色悪いわ)
気持ちは分かる。
これは醜い痕だ。
でも心に穴が開いたように、悲しかった。
「あらやだ。翠さんまだ片付けてないの? 薙今日はすっかり元気で食欲も出てきてお腹空いたって。今からキッチンを使うのに、これじゃ通れないわ」
「あっごめん」
『パパぁ、おはよう! ボク、げんきになったよ』
五歳になったばかりの薙が元気よく駆け寄ろうとしてきたので、力を振り絞り答えた。
「薙、そこは危ないから、ママの所で待っていて」
「そうよ。足を切っちゃうわよ。パパが落として割ってしまったのよ」
「えぇ……パパ だいじょうぶ? おけがしなかった?」
「あぁ大丈夫だよ。さぁママの所に行って」
「……うん」
なんとか後片付けをしたが、コーヒーがかかった足が痛いとは、とても言い出せない雰囲気だった。破片の処理に手間取り、少し指先も切ってしまったようだ。全く僕は不器用だな。
こんな時、流が近くにいてくれたら……すっ飛んで来てくれるのに。
(兄さん、大丈夫か! ケガしてないか! あぁもう馬鹿だな。ほらっ! 兄さんはあっちで待ってろ。俺が全部片づけて処理するから大丈夫だ。これさ、じい様の花瓶だけど、俺が割ったことにしてやるから、兄さんは黙ってろよ)
ふと昔、うっかり祖父の花瓶を割ってしまった時を思い出し、自然と頬が緩んでしまった。
だが、その後、そういう時間はもう流と僕の間には存在しないのを思い出し、気持ちが塞がってしまった。
最近の僕は、確実に心が弱くなってきている。
流との楽しい日々を頻繁に思い出しては、その喪失感に苛まれている。
「翠さん、片づいた? 薙に朝ご飯食べさせちゃうわね」
「うん、ありがとう。ごめん、僕は少し部屋にいるよ」
「……そう」
寝室でぼんやりしていると、朝食を終えた彩乃さんが入って来た。
いつの間に綺麗に化粧して、どこかへ外出するようだ。
「翠さん、薙も元気になったし、ちょっと実家に行ってくるから留守番をしていてね。あ、そうだわ。さっきはケガなかった? 火傷とかしなかった?」
「……大丈夫だよ。気を付けて楽しんでおいで」
「そう? なら良かったわ。翠さん、今日も顔色が悪いから、ゆっくりしていてね。食事はテーブルに用意してあるから」
「ありがとう、楽しんでおいで」
彩乃さんは仕事と育児で忙しいだけで、悪い人ではない。
だから大事にしてやりたい。
こんな僕だけど、僕なりに……
一人部屋に残されると、やはり目のことが不安になってしまった。
母さんに電話して相談しようか。でも心配させてしまうな。
彩乃さんには今日も散々迷惑をかけたので、これ以上は……
だが……やはり病院には早めに行った方がいい。
思いきって土曜日の午後診療もやっている眼科にやってきた。
「うーむ」
「あの、どうですか」
「どうも眼球自体に問題があるわけではないですね。ところで、最近何か強いストレスを感じていませんか」
「はぁ……ストレスですか……それは……少し」
「この症状は『心因性視力障害』の可能性が高いですね。精密検査をしないと何とも言えませんが、ストレスから一時的に視力を失うことだってあるのですよ。とにかく大きな刺激を受けないこと。次に心臓が止まりそうな程のストレスを急激に受けたら、どうなるか分かりませんよ」
「はぁ……」
診察では、すっきりしなかった。
ストレス……
僕にとってストレスとは、流に会えないことだ。
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