忘れ潮 3

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忘れ潮 3

 眼科からの帰り道、僕は衝動に駆られて横須賀線に飛び乗ってしまった。  土曜日の昼下がり。車内は家族連れや恋人同士、行楽に向かう人で賑わっていた。  僕はそんな様子は尻目に窓際に立ち、車窓を眺めることに徹した。灰色のビル群やカラフルな商業施設がひしめきあった都会の風景。やがて建物の間隔が開き、樹々の緑が増えてくる。  あぁ、鎌倉の空気が無性に恋しいよ。  早く、早く着け、北鎌倉に。   慈悲深い乳白色の大船観音の姿を仰ぎ見て、思わず泣きそうになってしまった。  先ほどの医師からの診断が、まだ心に突き刺さったままだ。 『この症状は『心因性視力障害』の可能性が高いですね。精密検査をしないと何とも言えませんが、ストレスから一時的に視力を失うことだってあるのですよ。とにかく大きな刺激を受けないこと。次に心臓が止まりそうな程のストレスを急激に受けたら、どうなるか分かりませんよ』  この目が見えなくなるのは嫌だ。  流の姿を、この目で捉えられなくなるのは絶対に嫌だ。  たとえ流に疎まれ嫌われていても、僕は流が好きだから。  僕だけでもずっと見守っていきたい。  どうしても手放せない大事な弟なんだ。  いつも実家に帰省するのは、薙や彩乃さんと一緒の関係で、事前に連絡してからだった。  だから今日は抜け駆けで行ってみよう。  そうすれば流に会えるかもしれない。  淡い期待を抱いて、僕は北鎌倉駅でひとり降りた。    駅からの上り坂はきつかった。  いつの間にこんなに体力を失ったのか。  何度か頭痛に襲われたので木陰で休みながら、なんとか月影寺の山門の石段に辿り着いた。  石段には落ち葉一つなく、手入れが行き届いていた。  木漏れ日が漏れる中、苔むした石段をそっと上った。  流……会いたい。  どうか会えますように。    でも直接は駄目だ。  僕の姿を見たら、流は消えてしまう、逃げてしまう。  それほどまでに今の僕は、流に嫌われている。  それは僕だって流石に理解している。  山門を潜り抜けると何人かの参拝客がいた。  庭の写真を撮ったり季節の花を愛でたり、思い思いの休日を過ごしているようだった。行楽日和のせいか、北鎌倉の奥の山寺にまで観光客がやってくるのか。  今日は袈裟姿ではないので、僕は観光客と混ざり気配を消せているようだった。  そのまま木陰を選んで、中庭を歩いた。  流はどこにいるのか。  だが、中庭には姿を見出せなかった。  どこに行ったのか。  もしかして、あそこなのか。  僕と流がよくふたりで足を運んだのは、寺の母屋の更に奥、もう一つの庭。 部外者が立ち入れない奥まった庭に静寂を割る滝があり、今にも崩れそうな廃屋がある。小高い崖を分け入り辿り着くと、そこにようやく流の姿を見つけた。  あぁ……流……  後ろ姿だ。  一心不乱に木材を切っている。  数年前にここを来たときは廃屋だった家は、流の手によって修復されつつあった。  茶室?  まるで茶室のような建物を、流はひとりで黙々と建てていた。  流……  今すぐ駆け寄ったら、僕を見てくれるか。  僕を避けずに見てくれるか。  あの大銀杏を見た日のように肩を並べてくれるか。  それから……  駄目だ。  あと一歩、その一歩が怖くて踏み出せない。  意気地なしだ。僕は……  今度流に避けられたら、きっとショックでこの目は潰れてしまうだろう。  ならばこのまま一方的に見ているだけでいい。  流の姿がこの瞳に映るだけでいい。  もう多くは望まない。  また失うのが怖いから。  木陰から、流の姿をじっと食い入るように見続けた。  小さかった弟は、既に僕よりもはるかに背が高く、肩幅も骨格も何もかも僕よりも大柄に成長していた。艶やかな黒髪を無造作に後ろで束ねて、大きな手のひらで綺麗に木材を揃えて割っている。  作務衣姿からも分かる厚い胸板。  迸る汗、頼もしい二の腕。  真剣な表情に心が揺さぶられる。  あ……僕は一体……  弟を見ているはずが、僕は何を見ていたのか。  父であり夫であるこの身で、この目で……  酷く自分が浅ましいものに感じ、慌ててその場から逃げた。  声はかけられなかった。  怖かった。  流がきっかけて流が見えなくなるなんてことは、あってはならない。    
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