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忘れ潮 4
いつの間にか僕は月影寺を離れ、海辺をとぼとぼと歩いていた。
どうやら寺から鎌倉駅まで歩き、そのまま由比ヶ浜の海岸へと自然と足が向かったようだ。
ここは通いなれた道だから。
自嘲するように、今は笑うしかなかった。
「ここには、流ともよく来たね」
そう呟いても、返事をしてくれる弟はもう傍にいない。
……
兄さんー 早く早く。うわっもうパラソルさす場所ないじゃん!
流っ、待て! 落ち着いて。
ははっ! 兄さんは案外どんくさいなぁ。
こらっ! 兄に向って……
さぁ泳ぐぞ! たんまりと!
ふぅ~ 流はいつも元気だね。
……
目を閉じれば、夏の日差しを浴びた若かりし兄弟の明るい笑い声が聞こえてくるようだ。
中学生の頃、それとも高校生だったか。
僕を無邪気に慕ってくれる弟の笑顔が、底抜けに明るくて大好きだった。
「流……お前をただ……ただ守りたかったんだ。ただそれだけだった。どうして、こんな関係になってしまったのか」
足元に引いては返す波を、ぼんやりとじっと見つめていた。
海には満ち潮と引き潮があって、満ち潮の時は浜辺を深く覆っていた海水も引き潮になるとみるみるうちに引いていく。すっかり引き潮となった時、砂浜の窪みに水溜りのように海水が残っている現象を『忘れ潮』という。
まるで、海の忘れ物のようだ。
僕の心にも、いつだって流がいる。
感情が満ちても引いても、どんな時だって弟の流の面影が残っている。
結婚し子供までいる我が身。
もう父親であり夫なのに、この感情を何と呼べばいいのか。
もう何年も答えが見つからなくて困っている。
夕日が沈むまで、辺りが暗くなるまで、僕はそこで忘れ潮を見つめ続けた。
東京のマンションには、まだ帰りたくなかった。
****
月影寺の裏庭は俺にとって憩いの場だ。
滝が落ちる轟音とその飛沫が清涼な風を運んでくれる。
ここは兄さんとよく来た場所だった。
二人で掘っ立て小屋を秘密基地にして遊び、肩を並べて将来の夢を語ったり、いつぞやのクリスマスには松の枝をへし折った場所でもあって、とにかく大事な場所だ。
兄さん……
もう俺の方から歩み寄れない分、面影を求めて寺の中を彷徨い歩く始末なんだから質が悪い。
ここを茶室にしようと思う。
兄さんを想う場所が欲しいから。
翠色の抹茶を点て、あなたのことを心の中で想い浮かべたいから、今日も暇を見つけ木材を切りにやって来た。
拭いきれなかった滴る汗が、乾いた大地にぽたりと黒いシミを作った。
ふと手を休めて竹林を眺めると、そこに人の気配を感じた。
懐かしく、優しい、愛おしい人の気配を――
「まさか!」
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