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忘れ潮 6
気が付くと周囲はだいぶ暗くなり、時計を見ると、もう18時を過ぎていた。
まずいな。そろそろ帰らないと、彩乃さんに怒られてしまう。
全く僕という人間は……衝動的に北鎌倉に戻ったものの、流に声を掛ける勇気もない意気地なしだった。本当に情けない。こんなことでは駄目だ。僕は父親であって夫であるのだから、家族を優先し第一に考えないといけないのに。
だが……
「流……」
いつものよう押し殺すようにその名を小さく呟きながら、胸ポケットに入れたお守りに触れようとした。数年前、流が僕のために買いなおしてくれた大事なお守りだ。それだけが今の僕にとって唯一触れられる流だから、後生大事に持ち歩いていた。
なのに……
「えっ……ない……どうして?」
胸ポケットに入れておいたはずのお守りが、忽然となくなっていた。
もしや、海岸で貝を拾おうとしゃがんだ時に落としたのか。慌てて先程まで佇んでいた砂浜に駆け寄ってみたが、もう、そこには何もなかった。
波が押し寄せては引いていく。
ただそれだけを繰りかえす光景しか残されていなかった。
これはもう、お守りにすら触れてはいけないということなのか。
そう思うと双眸に涙がじわっと滲む。
泣くな、翠。
いい歳の男が情けない。
「うっ……」
本当に、いつから僕の心はこんなに弱くなってしまったのか。北鎌倉の空気を吸ったせいか感傷的になっていた。そんな気持ちでもう一度海を見ると、涙でうっすら滲む世界の先に、浮かぶお守りを見たような気がしてはっとした。
「あれは、もしかして……」
波間に揺れる青い物体の輝きに吸い寄せられるように、僕は海中へ足を進めようとしていた。後から考えればなんて馬鹿なことをしたと後悔するだろうに、それは止まらない衝動だった。
だが足を一歩進めようとした瞬間、鞄の中の携帯電話がけたたましく鳴って、現実世界に一気に引き戻されてしまった。
「……もしもし?」
「翠さん? あなた一体どこにいるの? なんで家にいないのよ」
「ごめん。ちょっと出かけていて」
「今……どこ?」
彩乃さんの声はとても冷たかった。そして僕は嘘をつけない。
「あ……由比ヶ浜に来ていて。あっ……」
話しているうちに波間に浮かんでは消えていた青い物体は沈んだきり、二度と浮かんでこなかった。
まるで流との縁が立ち消えてしまったようで、一気に消沈した。
「ちょっと聞いているの? 信じられないわ。一人で帰省? 本当に翠さんって自分勝手よね」
「ごめん。今すぐに帰るかから」
慌てて浜辺から離れた。そして迷ったが少しでも早く帰ろうとタクシーを拾った。
「……鎌倉駅までお願します」
後部座席にもたれ暗いため息を漏らしながら車窓を眺めた時になって、驚愕した。
向い側の道に、驚いたことに流がいた。
間違えるはずなんてない!
あれは僕の弟だ。先程見たままの作務衣姿で、急ぎ足で由比ヶ浜方面へと歩いて行く。
後少し、あのまま浜辺にいたら、彩乃さんからの電話がなかったら、流と会えたのでは?
タクシーに乗ってしまった自分を恨んだ。
せめて歩いていたら、すれ違えたかもしれないのに。
僕は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。もう何もかも巡り合わない。
気が付くと今度は本当に涙が流れ出ていた。
「お客さん、具合でも悪いんですか」
「すみません。何でもないです。あの……急いで駅へ」
もうこの道しかないと、突きつけられたようだった。
僕に流と交わる道は残されていない。
そう最後通告されたような気持ちで、押し潰されていた。
その日を境に、視力はまた一段と悪くなった。
とても危うい世界になった。
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