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忘れ潮 8
その夜、窓が開かない都心の高層ホテルの一室で、彩乃さんを抱いた。
彼女の裸体からは人工的な香水の匂いが立ちこめ、彼女が汗ばんでいくのと引き換えに、僕の心は冷え切っていった。
なのに……身体が勝手に走り出す。
こんな関係、もう嫌だ。
身体が急ブレーキをかけ、悲鳴を上げている。
「翠さんも……こんなに感じているのね……」
「……」
……彼女は僕の何を見ているのだろうか。
翌朝、彼女は綺麗にお化粧をしてルームサービスの朝食を満足そうに食べて、仕事に出掛けていった。
「翠さん、行ってくるわ。あとは弁護士を通じて処理していきましょうね。また呼んだら抱いてね」
「……」
僕はまだ身体を起こせず、ベッドでギュッと目を閉じた。
なんの前触れもなく離婚を切り出された。
彩乃さんからの言葉は予期せぬものだった。
もしかしたら僕はずっと妻に甘えて来たのかもしれない。そのツケがとうとう回ってきたのか。結局、為すすべもなく僕の意志と反し離婚話はとんとん拍子に進んでいってしまった。
途中で頓挫したらいいのにと願ったが無駄だった。彩乃さんと僕の両親、弁護士を交えて協議し、あっけなく薙の親権は彩乃さんの元へ移ってしまった。
「正直……翠くんには幻滅したよ」
「申し訳ありません。力不足で……」
彩乃さんのご両親には深く頭を下げるしかなかった。そのまま薙を連れて、彩乃さんは出ていってしまった。
「当分、実家に帰るわ。このマンションのこともおいおい考えましょう」
僕の築き上げた家庭は、呆気なく崩壊してしまった。
中途半端な僕の心が全部駄目にしたのだ。
何もかも失ったという事実を抱え、失意の底に沈んでいくしか道はない。
「すみません。お父さんとお母さんに迷惑をかけることになって」
「翠、どうしたの? あなたらしくないわ」
「……分からないんです」
「いいのよ、あなたを責めているわけではないの。でもこれからどうするの?彩乃さんと離縁して、彩乃さんのご実家の仕事も解かれてしまったのね。正直、容赦なかったわね」
「……」
戻りたいのです。月影寺へ──
その一言が言い出せなくて、僕は押し黙ってしまった。
「少しだけ時間を下さい。まだ何も考えられなくて」
「分かったわ。翠、良かったら北鎌倉に戻っていらっしゃい」
「お母さん……すみません……今は一人になりたい」
最後は消え入るような声だった。
「分かったわ。少し心の整理をしなさい。翠……あなた……こんなにボロボロになって体調もとても悪そう。だから早く、戻っていらっしゃい。月影寺に――」
母の言葉が沁みた。
つい先日まではこのマンションで家族三人で暮らしていた。
なのに、誰もいない。
みんな去ってしまった。
いつの間にか日が暮れたのか、辺りは真っ暗だったが、僕は電気もつけずベッドで膝を抱えて、項垂れていた。
それから数日間、部屋から出られなかった。
いい加減に僕自身の身の振り方を考えないと駄目だ。
ここ数日、頭痛が酷かった。危ぶまれていた視力の低下も著しかった。このまま暗黒に落ちてしまったらどうしよう。そう思うと急に誰もいない部屋に一人でいるのが怖くなった。
「流……」
こんな時、流に頼れたらどんなにいいのか。でも僕が切り捨てたから、それは出来ない。
ふらふらと遅い時間になってから、彩乃さんに離婚を切り出されたバーにやってきた。
煽るようにカクテルを飲んだ。
酩酊して何もかも忘れてしまいたい。
なりふり構わず、飲み続けた。
「こんばんは。貴方の事をさっきから見ていましたが、元気がないですね。ご一緒しても?」
カウンターで強いカクテルを煽っていると、隣にやってきた男性に話しかけられた。その横顔にドキッとした。
あ……この男、流に少し似ている?
「……えぇ」
つい気を許してしまった。見ず知らずの相手なのに、流の面影に縋ってしまった。
「へぇ結構楚々としたお顔に似合わず、お酒がお強いんですね」
「そう?」
「あぁここはもう閉店のようです。よかったらもう一軒行きませんか?」
「……」
「この近くだし、いいBarがあるんですよ。席が空いているか電話で確認してきますね」
「分かった……行くよ」
礼儀正しい清潔そうな男だったので、つい誘いに乗ってしまった。
腰に手を回され、耳たぶを揶揄うように舐められた。
「よっ、よせ」
「ふぅん、身が固そうですね」
「……当たり前だ」
「欲しくなる」
「……」
流に似た顔で、流に似た声で囁かれ、もうどうなってもいい気分だった。
この鬱々とした心を少しでも緩和出来るのなら、この男に委ねて何もかも忘れたいと思った。
自暴自棄とは、このことを言うんだな。
自ら男娼のような真似をして、自らの手でこの身を穢していく。
「話が合いそうですね。ではBARはやめて部屋で飲みませんか。天国にお連れしますよ」
「……あぁ」
「では手配してきます。ここで待っていて下さい」
今のうちに洗面所に行こうと、ふらふらした足取りで店内を歩くと、流に似ている男が誰かと小声で話していた。
急に嫌な予感がし、身を隠しながら様子を窺うと、驚愕した。
彼が話している相手は……‼
「克哉、今頃来たのか。ちょうど君好みの清楚な男を見つけたぜ」
「本当か?」
「あぁモロ好みだと思う」
「うまく誘い出せよ」
「もうその気になっているから大丈夫だ。かなり酔っているし、このまま部屋に連れ込んでも大丈夫みたいだぜ」
「本当か! どれ? どの男だ?」
「その前に金、斡旋料くれよ」
「あぁ弾むよ。どの男か、早く教えろ」
僕は慌ててカーテンの陰に隠れた。
なっ、なんてことだ……
あの日彼に性的な目的をもって襲われたことを思い出して、身体がガタガタと震え出した。
もう長く封じていた事だった。
逃げないと……ここにいては駄目だ。
克哉に捕まるわけにはいかない。
今度こそ最後まで犯されてしまう!
震える足で非常階段を駆け下り、闇雲に走った!
「おいっ! あんた待てよ!」
「っつ……」
背後から呼び止める声が聞こえた。
その声を聴いた途端、視界がふっと暗転した。
とうとう真っ暗になってしまった。
見えない世界を闇雲に走った。
いつのまに車道に出ていたのか、最後に聞いたのは暗闇に轟く急ブレーキの音だった。
軋む身体を突き刺す激痛。
暗黒の世界の中で、僕は必死に手を伸ばした。
帰りたい。
会いたい。
離れたくない。
流……
僕を流の元へ連れて帰ってくれ。
遠い昔、離れ離れになって、もう二度と会えなかった弟の元へ。
僕と僕に近い誰かの思念が絡まっていく。
そこに流の低い声が微かに聞こえる。
お前はあの茶室で僕を待っていた。
「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで (平兼盛)」
僕を想って……
僕を探して……
僕は今度こそ、そこに行くから。
もう逃げない。全部受け止める。
僕からも求めるから……
もう離さないでくれ!
『忍ぶれど』忘れ潮 了
あとがき (不要な方はスルー)
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突然かもしれませんが、ここで『忍ぶれど』の章は終わりです。最後まで暗く切ない救いがない話を根気よく読んでくださって、ありがとうございます。
今日の部分はかなり改稿しています。この後、明日からは『色は匂へど』の章に入ります。今度は月影寺に戻ってきて流と過ごす穏やかな日々なので、こんなにハードではありませんので、どうか二人の恋の行方をこれからも追っていただけたら、彼らも報われます。
今度は『重なる月』で丈と洋が月影寺にやってくるまでの彼らの軌跡を描いていきます。スターやリアクション、ペコメで応援ありがとうございます。
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