『色は匂えど』序章 出戻る 

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 俺の兄、翠……  あなたを今のように徹底的に無視し避け出したのは、いつからだろう?  結婚した後も、何度か触れ合う機会はあった。  以前のよう仲睦まじい兄弟らしく優しい雰囲気になれる時も、あることはあったのだ。  赤ん坊が生まれた時は新居に駆けつけ、子守りを手伝ったこともあった。  実家の帰省中にインフルエンザにかかった兄を看病し、久しぶりに二人きりで出掛けた事もあったよな。  だが、いつも良い所で邪魔が入った。  嫁さんと息子。  今の兄には、俺よりもっと大事なものが存在しているのを見せつけられる度に、心の奥がキリキリと悲鳴を上げた。  せっかく俺が心を開いたって無駄だ。  兄は……結局嫁さんと子供の所に帰っていく人間だ。  夫であって、父親。  その役割が、とても重要で重たいこと位、知っているさ。  子供に罪はない。  兄にそっくりな薙は、俺にとっても可愛い甥っ子だ。  だから帰らないとならない。  だったら俺に甘えんな!  俺のことなんて忘れろよ!  月日が経つにつれ、俺は兄をあろう事か……亡き者として扱うようになってしまった。  何かの用事で会えば、俺を縋るような目で見つめてくるのが辛い。  俺を置いて行った癖に、どうして今更そんな目で見つめるのか。  俺の兄は、もういない。  俺だけの兄が良かったのに、人のものになってしまった。  俺だけの翠でないのなら、もういらない!  幼子のように、心の中でずっと駄々を捏ね葛藤していた。  ここ数年、心なんて休まらない。  俺は阿呆だ。そんなことしたって、もうとっくに翠は翠の人生を歩んでいるのに……結婚して俺を置いて家を出た時から、こうなることは分かっていたのに。  そんな翠が結婚して五年目に、まさか離婚するなんて――  まさに青天の霹靂だ。  先週突然、母親から翠の離婚話を聞かされた。  俺の耳に届いた時には離婚協議が全て片付いた後で、後はこの寺に戻ってくる日程を決めるだけだと告げられた。 **** 「なっ、なんだって! 今……何て言った? 兄さんが帰ってくる? この寺に? 母さんっ! どうしてなんでそんな肝心な事、早く教えないんだよ」  驚愕した。  そんなこと想像もしてなかったから。   「あら嫌だ。流はもうここ数年、翠と口を聞かなかったくせに何を言ってるの? 『翠のことだけど』と口に出すだけで逃げて行って、相談にも乗ってくれなかったじゃない」  母に言われて耳が痛かった。  まったくその通りだから。  それにしても理由が知りたい。納得いかない! 「何が原因だ? どうして翠が離縁させられるんだよ。もしかして嫁さんが何か仕出かしたのか」 「ちょっと落ち着きなさい。翠はね、身体を壊してしまって、もう絶対に都会暮らしは無理なの。結局あの子には合わなかったのね。無理が祟って可哀想に、あぁ……あんなことになるのなら、もっと早く戻ってくるように言えばよかった。違うわ。何度か戻るように促したのに、頑なに『大丈夫、まだ頑張れるよ』と」  兄さんの健気な表情が浮かんで、泣きたくなった。 「……身体を? 兄さんどこか悪いのか」 「それは……会えばすぐ分かるわ。それより流、あなたが翠の手となり足となり、お世話をしてあげてね。あなたの大好きな兄さんが戻ってくるのだから、いつまでも子供みたいに駄々を捏ねないで」  図星だった、耳が痛い。 「なんだよっ、それ!あっ、薙はどうするんだよ? こっちに連れてくんのか」 「……あちらに引き取られることになったわ。翠の息子でもあるのに、強引だったわ」 「そうなのか……」  どうやら兄さんは、少し身体を壊しているらしい。だがその事は、その時の俺にはさして重要に思えず、とにかく奥さんと離婚して、出戻ってくれることが嬉しくて、心の奥底で密かに微笑んだ。  兄さんの不幸を喜ぶなんて不謹慎なのは承知だが、それでも兄さんが独り身になったことが嬉しくて仕方がなかった。 ****  もうすぐだ。  車が山門に着いたと母から連絡があったから、あと少しで兄にまた会える。  兄さん、ずっと悪かったよ。  俺が長年じわじわと苛めたようなもんだよな。  もう仲直りしよう。ようやく、ここに帰ってきてくれたのだから、俺も以前のように優しくするよ。    もうずっと傍にいよう。  二度とこの寺から離さない。  そんな浮かれた気持ちで、兄さんの到着を今か今かと待っていた。  心が躍る。  心が跳ねる。  俺だけの兄さんにまた会えるなんて、まるで夢のようだ。  兄さんはきっといつものように颯爽と前を見据えて、袈裟姿でスタスタと歩いて来るだろう。  そう思っていたのに、母と一緒に現れた姿に驚愕した。 「えっ……」  衝撃だった。  その姿は何だ?  兄さんに一体何が起きた?  
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