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「翠、そろそろ行くわよ」 「……すみません。母さんにこんなに心配かけて」 「何を言うの……この子はもう……」  母が僕を都内のマンションまで迎えに来てくれた。  僕の荷物は先日、母が整理して月影寺に送ってくれ、彩乃さんと薙の残された荷物は、昨日引っ越し業者がやってきて持って行ってしまったので、もうここにはダンボール一つなかった。  僕は旅行鞄を抱えて項垂れてしまった。  五年間も結婚生活を続けてきたのに、僕に残された荷物はこれだけとは滑稽だ。幼い僕の息子、薙の笑い声が聞こえない部屋は静か過ぎるよ。 「翠……もう傷は癒えたの?」 「えぇ……身体の方は……だいぶ」 「……そう」  いつもは明るく朗らかな母の声も、今日は酷く沈んでいる。 「さぁもう帰りましょう。北鎌倉に」  まったく僕はいい歳して、こんなに母に心配をかけて、情けないやら悲しいやらで、助手席で零れ落ちそうな涙を堪えた。いよいよ我慢出来そうもなくなり、慌てて車の窓を開け、ブワッと吹き込んで来る風に身を任せた。  涙は光となって過ぎ去っていく。  遥か彼方へ──  やがて空気が、突然変わった。  塵が舞う息苦しい空気は、いつの間にか新緑の香りを乗せた爽やかなものに変化した。あぁ、懐かしい緑の森の匂いを感じる。これは北鎌倉の山々から、一気に吹き下ろしてくる肌馴染みの良い風だ。  間もなく弟に会える。  弟と暮らした懐かしい北鎌倉の月影寺。  僕の実家、僕の居場所。  今度こそ終の棲家になるだろう。  もう結婚は懲り懲りだ。  そう思うと、胸が高鳴った。  五年も離れていたので勝手が少し変わったのか、階段で足がふらついてしまった。 「翠、駄目よ。一人で歩くなんて無理よ。さぁ私に掴まりなさい。全く流を迎えに来させようと思ったのに、あの子ったら何をしているのかしら」 「母さん……本当にすいません」 「もう謝らないで、あなたのせいじゃないわ。あなたがそうなってしまったのは……私の責任でもあるわ。だから謝っては駄目よ。翠は自分を犠牲にしすぎたのよ。もうここはあなたが愛した月影寺の境内よ。だから安心しなさい」  母の言葉が身に沁みた。  こんな様になったのは、僕が僕を蔑ろにしたせいだ。何もかも駄目にしてしまった。彩乃さんに離縁されたのも当然だ。  今の僕は誰の役にも立たない木偶の坊だ。  それでも嬉しかった。またここに戻ることが出来て。また僕の大事な弟の元に戻って来られて嬉しい。 ****  竹林の影から現れた兄さんの姿に驚いた。  顔半分に美しい顔を穢す大きな青痣が!  そして利き腕を骨折しているようで、痛々しく三角巾で吊るしていた。  肩を母に支えられて、ゆっくりゆっくりと慎重にこちらに向かって歩いて来る。  なんだよ、その怪我。  また腕を折ってしまったのか。  ふと俺を庇って骨折してしまった幼い頃の苦い思い出が蘇り、言葉を失った。 「流っ、そこにいたの? 何をしているの? 早く手伝って!」  母に見咎められて、肩を竦めた。 「今、行こうと思ってた所だ」  俺の声に翠がびくっと肩をゆらして反応した。  ん……? 随分大袈裟だな。 「流、流なのか……」  兄さんが左手を、不自然に空に彷徨わせた。  その仕草に驚いた。  なんだ? 俺ならここだ。  おいっ! 一体どこを見ているんだよ。   見当違いの方向を見つめる兄さんの瞳には、俺が全く映っていなかった。  なのに俺を必死に呼ぶ。 「流……流……どこにいる?」  まっ、まさか……
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