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 衝撃だった。  まさか、こんな現実が待っているなんて。  兄さんの瞳に俺が映らないなんて……嘘だろ?  あまりの衝撃に手に持っていた箒を、踏み石の上に落としてしまった。  するとカランっと乾いた音が静寂の竹林に響き、その音に反応した兄さんがようやく俺を見つめてくれた。  いや、違った。  その視線は俺を通り抜け、光の方を向いてしまった。  ショックだ。 「流……? そこにいるの?」  おずおずと躊躇いがちに発せられる声に、胸の奥がギュッと締め付けられる。  俺を呼ぶ時の声じゃない。そんな探るような声は!  兄さんは常に俺を真っすぐ見つめ、微笑みながら「流」としっかり呼んでくれた。  今すぐ駆け寄って抱きしめて、そんな姿になってしまった理由を問いただしたい。  なのに、俺の足は一歩も動かない。  母さんに支えられ弱々しく立っている翠の痛々しい姿を、これ以上見ていられないんだ。  だから目を逸らし踵を返し、兄さんとが真逆の方向へと走り出してしまった。 「あっ、こら! 流っ、あなたどこへ行くの? 翠に付き添って欲しいのに」  母の声が追いかけて来るが、無視して走り続けた。  ****  漸く、慣れ親しんだ月影寺に戻って来られた。  山門を潜るために石段を上がるのも、母に介添えされながらという情けない姿になってしまったが、次第に長年染みついた感覚が蘇り、やがて母の手を離れ手すりを頼りに、一段一段上ることが出来た。  光は感じるのだ。  明るい方へ――  早く流の元に行きたいと。  苔生した新緑の匂い。  竹林を吹き抜けていく薫風。  今日からは、振り返ればいつだって僕を見つめてくれた弟の傍で、また暮らせる。 「あっ」  気持ちばかり焦って、山門の敷居に躓いてバランスを崩してしまった。  折れていない方の手を柱に伸ばし、何とか転ぶことだけは避けられたが、母が心配してすっ飛んで来た。 「翠、駄目よ! もうやめて! もう無理しないで。また骨折したらどうするの?」 「……すみません」 「まったく、流はどこかしら」  母の口から発せられる「流」という言葉に、いよいよだと胸が高鳴る。  僕達、ちゃんと会うのはいつぶりだろう?  僕は戻ってきたよ。  だからどうか許して欲しい。  もう流を置いてどこにも行かないから、どうか僕を見て、僕を呼んで、僕に触れてくれないか。  また以前のように……  自分勝手なおこがましい願いだと分かっているが、脆く壊れそうな僕の心をなんとかこの世に繋ぎとめてくれたのは、流の存在だった。  ところが……  カランと箒の転がる音を頼りに呼びかけてみたが、流は僕の元へは来てくれなかった。  そうか、そうなのか。  これが現実で、これが結果なのか。  そう簡単に受け入れて貰えないとは理解していたが、かなり堪えた。  流に嫌われた。  僕はもう許して貰えない。  そう一気に悟ってしまった。  血の気が引いていく。  さっきまでの懐かしい月影寺の薫風は、一瞬のうちに荒涼とした風となり、僕の身体をズタズタに切り裂いていく。  見えない血が流れる。  寂しいと、心が叫ぶ。  頭が痛い。  割れるように痛いよ。 「翠! どうしたの」  母の声は遠くへ――  僕の心は意識を飛ばすことで、この辛い現実から逃げようとした。  あぁ、もう駄目だ、心を制御出来ない。  心を壊すわけにはいかないと、今までギリギリの所で持ち堪えていたものが、端からボロボロと崩れ落ちていく。  今まで散々な目に遭っても、気が狂わないで済んだのは、流がいたから。  再び弟の元に戻るため。  だが……もう遅いのか。  もう受け入れてもらえないのか。  僕はもう必要ないのか。  流……もう一度だけでいい。  僕を呼んで欲しかった。  視界は暗転、心は湖の底へ。 ****  バキッ――! 「流! この大馬鹿もんっ!」  翠の様子が気になって母屋に恐る恐る戻ると、いきなり父親に吹っ飛ぶほど殴られた!  滅多に手は出さない人が、恐ろしい剣幕だ。  まさか俺は肝心な時に、道を踏み間違えてしまたのか。  痛みよりも心配が一気に駆け上った。 「教えて下さい。一体兄さんに何があったのですか!」
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