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我慢の日々 1
兄さんと手を取り合って心を通わせていると、階下から母の声がした。
「流っ、翠が起きたのなら、お風呂に入れてあげて! あなたなら一緒に入って身体を洗ってあげられるでしょう」
ううっ今誓ったばかりなのに、俺の理性がガラガラと崩れ落ちそうになる容赦ない命令だ。
くそっ、早速拷問の始まりかよ!
だが、何故か心にぽっと灯りが灯ったような明るい気持ちになっていた。
「流、聞いているの?」
「分かってるって!」
「なら早く翠を風呂場まで連れてきて頂戴」
階下から母の声が響く。
全く気楽なもんだよな。まぁ俺の心の中なんて読めるはずもないか。こんなハチャメチャな感情は誰にも見せられないぜ。
実の兄に、こんなにも恋焦がれているなんてさ。
苦笑しながら兄を見ると、焦点の合わない目で俺を見つめていた。俺の声を頼りに縋るようにじっと見てくれているのに、その視線が絡まないことが本当に残念だ。
参ったな。これは何とじれったいことか。
「……兄さん、起きられそうか」
「あっ、うん」
「風呂入りたいだろう? 汗をかいたみたいだし」
「えっ……でも……いいよ」
明らかに動揺し躊躇する兄さんに少しイラついてしまった。
東京ではどうぜ嫁さんに手伝ってもらっていたのだろう?
その光景を想像しすると、心がざわついた。
あっそうか……
俺はずっと彼女が羨ましかったんだ。
兄さんの裸体を遠慮なく見ることが出来る立場が……
「遠慮するなよ。男同士だし、小さい頃はいつも一緒に入った仲だろう?」
「それは、そうだが……」
兄さんは明らかに動揺していた。
おいおい、頬まで赤く染めて……
その様子に不謹慎だが嬉しくなった。
もしかして俺を意識してくれているんじゃ……そう錯覚しそうになる。
「ほら、行くぞ。母さんからのお達しだ」
ところが兄さんの骨折していない方の手首を掴んで驚愕した。
「なっ、なんだよ! こんなに細くなって、頬だってコケて……一体どうなってんだ?」
勢いに任せて引っ張りあげると……
「あうっ」
兄さんは小さな悲鳴をあげ、顔をしかめた。
その蒼白な顔色に、今日は風呂は無理だと悟った。
骨折してない方の手も痛めてるのか。その身体、早く全部見せろよ。どこをどう怪我しているのか。見えない部分まで見せてくれよ。
「……ごめん。確かに今日は風呂は無理そうだな。それならせめて身体を拭いてやるよ。下に行って温かいお絞りを用意してくる」
すると兄さんはますます青ざめ、頭をブンブンと横に振った。
「流、もういいから。お願いだから……そんなことしないでくれ。僕は……僕は情けないよ。こんな姿で戻って来たことも、何も出来ない自分も本気で嫌になる」
顔を覆い、兄はさめざめと泣いた。
「どうして、いつも自分ばかり責めるんだよっ」
いい加減に腹立ってきた。
優しくしよう。
今度こそ絶対に優しくしようと思っているのに。
駄目だ! 駄目だ、このままじゃ。
「だって……僕は流を守ってやれない」
絞り出すような声で、兄さんがそう言った。
その言葉に肩の力が抜けた。
なんだよ……馬鹿だなぁ、そんな風にまだ思っていたのか。
律儀だよ。
兄さんは生真面目過ぎる。
たった二年だ。
俺より二年早く生まれて来ただけなんだぜ。
「兄さん……兄さんは黙って俺に甘えればいい」
兄さんの肩をグイッと抱き寄せ、背中を撫でてやった。
「兄さん……なぁ……暗闇は怖いだろう。だが俺が兄さんの光になってやるから大丈夫だ。そう心配するな。ここで養生すれば必ず見えるようになるから……なっ」
何度も何度も、優しく撫でてやった。
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