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波の綾 7
その晩は、なかなか寝付けなかった。
目を閉じると、兄さんを抱き上げて下山する場面が鮮明に浮かんで来る。
蒸し暑い湿った空気、雨の匂い、袈裟に焚いた香の香りが混ざり合っていた、
兄さんの髪からふわりと漂うウッディ系の香りが、どこまでも官能的だった。
身体が濡れないように、俺の胸に強引に頭を押しつけてやると、兄さんの吐息が胸元を掠めた。
あれは良かった。
なんとも甘く擽ったくて最高だった。
今日はラッキーな一日だったな。
悦に入りながら寝返りを打つと、急な寒気に見舞われた。
ん? 真夏の夜なのに、どうしてこんなに寒いのか。
気のせいかと思ったが、ゾクゾクと悪寒が走り出す。
こんな事は滅多にないので、急に気弱になってしまう。
俺は昔から病に冒されることに、異常なまでの怖れを抱いている。
もしも不治の病に倒れたら、翠の傍にいられなくなる。
頑丈な身体で生まれてきたくせに、そんな不安で一気に埋め尽くされていく。
ヤバいな。
風邪か、いや、何か違う病気だったら……
そう考えるだけで、胸が苦しくなる。
目を閉じると、遠い昔、俺が俺になる前の姿が浮かぶ。
心臓を押さえ脂汗を大量にかきながら、竹林に隠れるように蹲る男がいる。
病を悟られなように必死に押し隠し、作り笑いを浮かべる悲しい男は誰だ?
嫌だ。
もう二度とあんなことは駄目だ。
藁にも縋る思いで、兄さんを呼んだ。
兄さん……兄さん……兄さん……
翠……
心の中で波を起こすと、兄さんが部屋に飛び込んで来てくれた。
あぁ、やっぱり俺の特効薬は兄さんだ。
兄さんがいれば怖くない。
「寒いんだ……昔みたいに暖めて欲しい」
甘えるように兄さんの細い手首を掴んで引き寄せると、兄さんの方から俺を抱きしめてくれた。
「流……こんなに震えて、寒いんだね。兄さんが暖めてあげるから大丈夫、大丈夫だよ」
昔、こんなことがあった。
だいたい兄さんの風邪をもらうパターンだったが、兄さんがいつも俺の布団に入って抱きしめてくれたのを思い出した。
あぁ、ほっとする。
兄さんが一番いい。
兄さんの身体を辿りたいのに……
身体がひどく怠く、瞼が重たい。
急に眠くなって……意識を失った。
****
「流? 流……寝てしまったの?」
抱きしめて暖めてやった身体は、今はまるで炎が燃えるように火照っていた。
「すごい熱だ!」
慌てて体温計を持ってきて測ると、40度近い高熱を出してた。
眠っているはずなのに、ずっとハァハァと荒い息を肩でしている。
どうしよう、どうしたら?
僕は泣きそうな顔で、部屋を飛び出した。
母に事情を告げると、すぐに主治医に電話をしてくれた。
ところがいつも往診に来て下さる先生は、生憎お盆休みで旅行中とのこと。
目の前が真っ暗になる。
母さんが流の様子を確認してくれ「熱は高いけれども、明日まで待っても大丈夫よ」と言ってくれるが、僕の心はざわざわと落ち着かない。
どうしてこんなに不安なのか。
分からないけれども、どうにかしないと、流が消えてしまう。
そんことあるはずないのに、そんな日が本当にあったような既視感。
「……僕が朝まで看病します」
「翠、心配なのは分かるけれども、明日もお盆の棚経は続くのよ。翠まで倒れたらどうするの?」
「でも……心が落ち着かないんです」
「困ったわね。こんな時は誰か知り合いのお医者さんでもいらっしゃれば相談出来るのにね。丈はまだ研修医で抜け出せないし……」
その瞬間、葉山の海で僕を助けてくれた医者の顔が浮かんだ。
確か由比ヶ浜で診療所を……
そうだ……あの時、名刺をもらったはずだ。
困った時は頼ってくれと……
「お母さん、当てがあります。僕がお医者様を連れてきます!」
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