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色は匂へど 6
写経を終え耳を澄ますと、閉めきった障子の向こうに雨音が聞こえた。
いつの間に雨が?
結構降っているな。
次第に雨戸に吹き付けるような強くあたる音になっていく。
流は「見回りをするからもう寝て下さい」と言ったきり、姿が見えない。
今、どこにいる?
庭か、それとも離れか。
いつも僕の傍にいる流の気配がしないのが不安になり窓辺に立つと……
ピカっ──
部屋の中まで稲妻が届くような轟音がして、僕は一瞬身を縮めて怯んでしまった。
雷が近づいているようだった。
眉間にしわを寄せて佇んでいると……
ドドドッ──
今度は一度木造の家屋が揺れる程の轟音がした。
「くっ……」
雷が寺に落ちたようだ。
僕は雷が本当は苦手だ。だが長兄として寺の跡取りとして、苦手なものがあってはならぬと自分を律し生きてきた。
だから奥歯を噛みしめて耐えた。
雷は次第に遠のいたが、雨脚は強まるばかりだ。
僕の脳裏には……庭先でずぶ濡れになって、茶室に駆け込んだ流の映像がずっと浮かんでいた。
流の作務衣は地肌にぴたりとくっつき、無造作に束ねた黒髪からポタポタと水滴がしたたり落ち……それが流の心の涙のように思え、居ても立ってもいられなくなった。
「流、流……どこにいる?」
待てど暮らせど帰って来ない。
僕は浴衣姿のまま下駄を履き、傘を差して庭に出た。
流、泣かないでおくれ。
僕がそこに行くから。
僕の傘にお入りよ。
何故そんな風に思ったのか分からない。
遠い昔、幼稚園に通い出した僕に「おいていかないで」と泣き縋った顔を思い出したからか。
茶室に流はいなかった。
もしかして丈と洋君の部屋に駆けつけたのか。
あそこは以前から雨漏りしていたので、流が駆けつけた可能性は大だ。
洋くんたちの仮住まいの部屋に入ると、突然ドバッと天井から雨が降ってきた。
「うわっ!」
見上げると、天井の隙間から雨漏りというレベルではない雨が降っていた。
参ったな。油断したな。
傘を差して入るレベルの雨漏りだ。
これは酷い。
しかし……流も丈も洋くんも、一体どこに消えてしまったのか。
僕だけ世界に取り残されてしまったようで不安になる。
「皆……どこだ? 僕を置いていくな。皆……僕の傍にいておくれ」
手当たり次第に夢中で襖という襖を開くが、見つからない。
いない、いない、いない……
どこへ?
脱衣場の前を通り過ぎた時、ようやく流たちの声がしたので安堵した。
よかった。
皆、まだ傍にいてくれる。
そっと覗くと……脱衣場には脱ぎ散らかした衣類のみ。
思い切って浴室の扉をガラリと開くと、白い蒸気の中で流と丈と洋くんがスクラムを組むような姿勢で立っていた。
不思議な光景だが嬉しい光景だった。
僕が張り巡らせた結界の中で、兄弟たちが体を寄せ合って笑っている。
「良かった。皆ここにいたのか……探したよ」
流がタオルを腰に巻いて飛んでくる。
その雄々しい姿に、僕の胸の鼓動がぐっと早くなる。
「兄さん、こんなに濡れて! 一体何があったのですか。俺が見回りはするから寝ていて下さいと言ったじゃないですか」
「流……でもお前がなかなか帰って来ないから、心配になったんだ。それで丈たちのいる離れに行ったら酷い雨漏りで……ふっ……この様だよ」
「あぁ、それでですか。全くびしょ濡れじゃないか! 風邪ひいたらどうするんですか。はぁ……全く……」
流が心配そうに僕の頭にすっぽりとバスタオルを被せて、ゴシゴシ拭いてくれた。
一瞬そのまま身を委ねてそうになった。
だがまた自分を律してしまった。
「流……いいよ! 自分で拭ける」
逞しい流の腕を掴んで、動きを制してしまった。
流が気まずい顔をする。
せっかくのいい雰囲気が……これでは台無しだ。
僕はいつも……これでは……いつまで経ってもお前の近くに行けないね。
だから思い切って普段だったら絶対に言わないことを……
「流、それより僕も風呂に入ろうかな? えっと……皆で入っていて楽しそうだし……なぁ流、僕も入っていい?」
「えっ」
流の反応は、こちらが赤面するほど露わなものだった。
顔を真っ赤にし耳朶まで染め上げて……
「流……聞いている? はぁ、流はすぐ無口になってしまうな」
僕たちいつから裸を見せ合っていないかな?
昔はいつも一緒にお風呂に入っていたのに……
何でもいいから流との距離を縮めたい、歩み寄りたい一心で、僕は自ら脇前で結ぶ腰紐に手をやり浴衣を脱ごうとした。
その瞬間、流は目を反らし、何かをぐっと堪えるような表情を浮かべ、風呂場から飛び出てしまった。
まるで捨て台詞のような言葉を残して――
「おっ、俺はもう上がる」
こうじゃない。
この方法では駄目だ。
あまりに流と距離を置きすぎて、歩み寄り方が分からなくなってしまったよ。
どうか僕に機会を――
どうしたら僕たちが動き出せるのか。
どうしたら……あの山を越えられるのか。
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