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別離の時 1
結婚式の間、俺はずっと俯いていた。
作り笑いせず、無愛想に振る舞っていた。
それは隣の丈も同じだった。
いつになく末の弟の存在が、心強く感じた。
お前も納得していないのか。
俺は納得していない。
それでも……俺の気持ちなんて無視して、結婚式はつつがなくお開きとなってしまった。
今日から兄さんはもうこの寺に戻らない。
従って俺がこの寺の後継ぎとなるそうだ。
嘘だろ?
こんな結末、誰が予想したか。
兄さんがいない世界がやってくるなんて。
兄弟でいれば、ずっと傍にいられると思っていたのは、間違いだったのか。
春夏秋冬──
翠がいたから感じられた美しい四季の移ろい。
もうそれは俺にとって何の楽しみもないものとなった。
****
気が付けば結婚式から数か月の時が流れていた。
結局、兄は夏の間、北鎌倉に一度も戻ってこなかった。
俺もそれでいいと思った。
この寺から勝手に出て行ったのは兄だ。
俺を置いていったのは兄だ。
哀しみは、いつしか怒りへと変化していた。
こんな気持ちでは精神統一なんてもっての外で、僧侶の修行に身が入るわけない。それでも父のもと、嫌でも僧侶としての仕事が舞い込んでくる。
学生でありながら、寺の勤めをこなさなくてはいけない忙しい日々に、いつしか兄さんのことを考えるのをやめていた。
お盆も終わり夏休みも終わり、また大学が始まった。
いつものように、大学からつなぎのまま全身に絵の具をつけて帰宅した。
十月の学祭に向けて大掛かりな作品を作っているので、こんなのは日常茶飯事だ。
足も手も髪も絵の具まみれなので、正面玄関を汚さないように、勝手口から家に入り、そのままシャワーを浴びた。
濡れた髪のまま肩にタオルをひっかけ、喉が無性に乾いたので、上半身裸で台所へ向かった。
「母さん、麦茶あるー?」
そのまま、固まった。
「あっ……」
居間に……兄がいた。
いつものようにすっと背筋を伸ばし、ソファに座っていた。
その横には、嫁さんも一緒だった。
「流……」
涼し気な瞳で兄は俺を見て、何故か頬をぽっと赤らめた。
その表情にドキッとした。
お、おいっ、どうした?
そんな表情すんだよ。
無性に腹が立った。
でも心の奥底では、久しぶりに会えた兄への思慕の情を抱いていた。
「……っ」
「こらっ流、あなた、なんて恰好なの! 彩乃さんもいるのに。早く着替えていらっしゃい。もー 彩乃さん、ごめんなさいね。この子ってば不作法で」
「お義母様、とんでもないです。翠さんが大事にしている弟さんにお会い出来て嬉しいので、お気になさらず」
俺は無言で部屋を飛び出した。
心臓がドキドキしっぱなしだ。
四カ月ぶりにあった兄は、何も変わっていなかった。
だが、変わっていなかったのに、隣に嫁さんが我が物顔で座っていた。
残酷な光景だな。
兄さんの隣は、いつも俺のものだった。すぐ下の弟として愛情をほしいままにしてきた。兄の隣の部屋に居座り、兄の隣を歩いた。食卓でもソファでも、俺はいつでも兄の隣に座っていたのに……もうそこは俺の場所じゃないと、見せつけられた気分だ。
それでも恋しいよ。
兄さん……俺の兄さん……俺の翠!
もう二度と触れてはいけないのか!
……俺は触れたい。
抱きしめたい。
相変わらず胸が苦しいままだ。
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