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別離の時 2
部屋で着替えていると、母の声がまた響いた。
「流~ 早く降りていらっしゃい」
「分かってる!」
くそっ、頭に響くんだよ。
うるさい!
俺は明らかにイライラしていた。
原因は分かっている。
絶対に……あの女のせいだ。
兄さんを奪った女の存在が、なんともいえない重石のように圧し掛かってくる。
3人掛けのソファで……これ見よがしに兄さんと手を繋いで、兄さんの肩に寄りかかっていた。
見たくない光景を見せられて、俺の心は真っ黒だ。
憂鬱な気持ちのまま居間に向かう足取りは、信じられない程重たかった。
兄さんは嫁さんと一緒に、両親と談笑していた。
ありえない程、和やかな雰囲気だった。
「流、やっと来たわね、ここに座りなさい」
俺は強引に引っ張られて、母の横に座らされた。
「さっきはごめんなさいね。この子が無作法な姿で、ほら流、挨拶しなさい。結婚式以来でしょう」
「ふふっお母さま大丈夫ですよ。流くん、お久しぶりね。何度か東京の家に来てもらおうと思って、声を掛けたのに都合がつかなかったみたいね。お母さまから話は聞いているでしょう?」
「……」
兄嫁はずいぶんと社交的な人のようで、新居に遊びに来るように何度か母を介して勧められたのは事実だ。俺がわざわざ兄さんの幸せを覗きに行くはずもないのに……まるでそれを知っているかのような執拗な誘いだった。
「で、改まって話というのは何かしら」
母が押し黙った俺の代わりに言葉を繋げた。
「ええ……実はね」
彩乃さんは兄さんを見つめ微笑むと、兄さんは少し戸惑いを含んだ微妙な表情を浮かべた。
「先週分かったばかりなんです。実は私……」
「あらやだ! もしかしてご懐妊なの?」
母はピンときたらしく、的確に見破った。
「ええ、まだ三か月ちょっとですが」
俺はポカンとした。
ご懐妊?
会話が、遙か彼方で聞こえた。
あっあれか、嫁さんに赤ちゃんが出来たってことなのかよ。
思わず兄の顔を無言で睨むようにじっと見つめると、気まずそうにすっと目を反らされてしまった。
その反応に胸の奥がギュウっと音を立て軋んだ。
「ハネムーンベイビーみたいで、ねっ翠さん」
「……あっ……うん、まぁ……」
「まぁまぁまぁ、こんな順調にいくとは思ってなかったわ。お父さんおめでたいですね。今日はお祝いをしないと、っと彩乃さんはじゃあ飲めないのね。それで出産予定日はいつなの?」
母は明らかにハイテンションで舞い上がっていた。
「予定では二月末です」
「まぁ! 来年には私もおばあちゃんになるのね!」
母はひたすらはしゃいでいるが、俺が喉がカラカラに乾いて言葉を発せなかった。
「そうだわ。今日はあなた達はここに泊まっていきないさい。彩乃さん身重なんだから、東京までの往復は身体に負担がかかるわ」
「そんな……」
「翠さん、私、疲れちゃった、ねっ……いいでしょ?」
「え……あぁ……」
マジかよ。ここに泊まる?
兄さんと嫁さんが、この家に?
「良かったわ。じゃあ客間を用意するわね」
「あのぉ……出来たら翠さんが使っていたお部屋に泊まりたいんですが」
「えっ?」
流石にこれには兄さんも動揺していた。
「えっ、彩乃さん、それは……」
「憧れだったのよ。翠さんが成長した部屋に泊まるのって、ねっ翠さん、いいでしょう?」
「……う…ん」
甘えた声に辟易した。
もう……絶望だ。
その晩、夕食は寿司の出前を取った。
父も母も上機嫌でビールや日本酒をたらふく飲んでいた。だが兄は一口も飲まなかった。もちろん妊娠中の兄嫁も。
「翠さん、まぐろが食べたいわ。でも届かないわ」
「……取ってあげるよ」
「翠さんにも取ってあげるわ」
「……ありがとう」
二人が労りあえばあう程、イライラが募る。
だから俺は滅茶苦茶飲んだ。飲みまくった。
「こらっ流、飲み過ぎよ」
母に窘められても止められない。
正気に戻りたくない。
兄さんが、父親になる日が来るなんて――
分かり切っていたことだが、兄さんが女を抱いてしまった。
そしてその女の腹に、赤ん坊を身籠らせてしまった。
結婚した夫婦なんだから、当たり前なのに、頭では分かっているのに。
くそっ! こんなことってないよな。
何だか裏切られた気分だ。
一方通行の気持ちが暴走しておかしくなりそうだ!
「俺、もう寝る」
ふらふらと立ち上がり、よろけて柱に手をつく俺を兄さんがさっと支えてくれた。
「流、どうした? 飲みすぎだよ」
「五月蠅いんだよ」
手を振り払おうとして、さらによろけてしまった。
ざまぁねえよな! こんな姿……
やけ酒にもほどがあるってものだ。
「母さん、僕が部屋まで送ってきます」
兄の涼し気な優しい声が、耳元で聴こえた。
こんな時なのに、その声が鈴が転がるように心地良く感じるなんて……救いようがない。
こんな状態でも、俺、兄さんが好きなんだ。
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