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04 安心をくれた人
湿った手がシャツの裾を通り、地肌を這う。
「気持ち……悪いっ…………」
「お前は水泳と空手をやっていたな」
「はなれ……ろ……っ」
荒い息が首や顔にかかる。酒と煙草の混じった臭い。
逃げようとベッドから這うが、横腹に爪を立てられ、かすれた声が漏れた。
「ぐっ…………!」
食い込んだ爪が肉を押し、背中に痛みが走った。
「しなやかな筋肉だ。若いってのはいいなあ」
胸元まで手が差し掛かったとき、遠くから足音が聞こえた。
慌ただしい足音は隠す気もなく、やがて近づいてくる。
鉄格子を開ける音に根岸は飛び起きた。
背中か軽くなり、恐る恐る目を開けると誰かが根岸の胸倉を掴んでいる。
「誰の指示でこのようなこのようなことをした」
「こ、これは……あの方の意思で……」
「虚言を吐き、騙されると思うか? 生徒を守る立場の人間が手を出し、食事も与えない。お前は重罪を犯した」
「申し訳ございません! 申し訳ございません!」
息もままならず、男が誰なのか判別できなかった。
いくつもの足音は鉄格子の中へやってきて、根岸は腕を背中で拘束具をつけられた。
静寂が訪れた後、ひどく物悲しい気持ちになった。
男に襲われるなど、情けなくて腹筋に力を入れていなければ顔中真っ赤に腫らして涙でベッドを濡らしていたところだ。
涙を流せなかった事情はもう一つある。警備隊が全員いなくなったわけではなく、ひとり残っていたからだ。
目が使えない分、鼻がよくきいていて、男っぽい香りにくらくらした。
「咲紅…………」
襲われたときに消耗した体力がほとんど残っていなくて、指一本動かせないほど億劫だった。
男は咲紅の顔まで近寄ってくると、身を屈める。
額に落とされた柔らかなものが離れていくと、男の匂いがさらに強くなった。
何を謝っているのか、むしろ助けてくれたことにお礼を言いたいのに、唇が声にならない。
目に手が覆い被さり、まぶたを無理やり閉じられた。
大きな手は下に移動し、腰の辺りを一定のリズムで叩いてくる。
それがとても心地良くて眠くて、閉じたまぶたは開くこともなく、そのまま眠りについた。
朝に目が覚めると、部屋の中が良い香りに満たされていた。
独房に似つかわしくない匂いの正体は、机に三本の薔薇だ。瑞々しくそり上がった花びらには水滴がついていて、光を吸収し真っ赤な薔薇を輝かせている。
咲紅は驚愕の色を浮かべ、立ち尽くした。
ロールパンとスープ、皿にはスクランブルエッグにカリカリに焼いたベーコンが乗っている。学食で食べるいつもの朝食だが、トレーにはおにぎりが二つ乗っている。しかもけっこう大きめだ。
おにぎりを手に取り、手を開いたり閉じたりしてみるが、自分の手より大きな人間が作ったものだ。
塩加減がちょうどよく、中には梅干しが入っている。
なぜだか泣きたくなった。こんな涙もろいはずではないのに、このところ感情の起伏が激しい。
心に竜巻が起こり、いろんな感情を巻き上げていく。風が止んだかと思えば、心臓がおかしなほど鐘を打ち鳴らす。
おにぎりとスープを食べたが、すべて食べきれなかった。おにぎりが大きすぎたせいだ。
食事から一時間ほど経つと、警備課の副隊長──葵がやってきて、懲罰房を解錠した。
「お久しぶりですね、咲紅」
「おはようございます」
「授業にも出ていないと聞き、捜していました」
微笑む姿は天使のようで、シャワーすら浴びていない姿でいるのが申し訳なくなる。
彼の近くにいると、紫影の顔がどうしても浮かんでしまう。心臓が通常の鼓動を鳴らせない。同時に、苛立ちもした。
「おにぎりは美味しかったですか?」
葵はトレーを見て微笑んだ。
「ああ……いえ、はい……美味しかったです」
見とれてしまい、おかしな返事をしてしまった。
「葵さんが作ってくれたんですか?」
葵は目を細め、口角を上げるだけで何も言わなかった。
「さあ、参りましょうか」
「俺、出ていいんですか?」
「元々あなたは独房へ収容されるようなことはしていません。根岸教員に対しては相応の処罰を与えます」
「やっぱり警備課の決断じゃなかったんですね」
「ええ。話を何も通さずに、あなたをここへ入れました。違法行為に当たります」
咲紅はちらっと彼の手を見た。白くて指が細く、男の手は大きいが、あのおにぎりを作ったとは思えなかった。作ったのなら作ったと言えばいいものを、彼は言葉を濁した。
久しぶりの日光に当たると、身体の奥から力が沸いて漲ってきた。
大きく深呼吸と伸びを繰り返すと、反省文でもなんでもどんとこいという気分になる。
「あなたは前向きで心の強い人ですね」
「そうですか?」
「たった数時間でも懲罰房に入ると、大抵の方は目に精気が宿っていませんから」
忘れていたわけではないが、昨日のことが頭をよぎった。
肌に触れられる感触は簡単に消えるものではなく、虫が通った後みたいにかきむしりたくなる。
「シャワーを浴びたいでしょうが、記憶が新しいうちにこちらへ来て下さい」
心を読んだかのように、葵は手招きをする。
小さく頷き、地上への階段を上った。
取調室には誰かの気配がした。
葵が扉を開けたので恐る恐る顔を覗かせると、警備課の衣装に身を包んだ紫影が椅子に座っていた。
「げ」
「お前は俺に会うたびにそう言っているな」
鼻で笑われ、咲紅は嫌そうにしかめっ面をする。
「まあ座れ」
「用なんかないだろ」
「あるに決まっているだろう。俺は警備課の隊長だ」
いささか「隊長」を強調した紫影は、人差し指で机をとんとん叩く。
机を挟んで、どっかりと椅子に腰を下ろす。
紫影と会うと、やはり鼓動がおかしくなるのだ。だから嫌だった。指先も目も足も落ち着かなくなり、行き場を失ってしまう。しかもかんな狭い部屋で、そろそろ心臓が止まってもおかしくない。
紫影は葵と目配せをすると、葵は取調室を出ていった。
胸が苦しくてたまらない。
「体育の授業での一件だ。詳細に、かつ噛み砕いて説明を求める」
「説明も何も、バスケで千歳にパスしたらシュートを外して、黒羽が怒っただけだ。俺が言い方考えろと止めに入ったら、懲罰房へ入れられた。……そういや千歳はどうしてる?」
「入院中だ」
「にゅっ……」
思ってもみない言葉だった。淡々と告げられるものだから、余計に衝撃が大きい。
「体調を悪くしていたのは、体育の授業の前だ。お前が連れてここにきた後、倒れ、すぐに運ばれた」
「元々悪かったのか……」
「お前は千歳と仲がいいと聞く」
「そういう情報も筒抜けなのか?」
「生徒の情報はすべて手の内にある。誰が問題行動を起こしたのか、回数、成績、得意分野。身長や体重もだ」
「俺が授業をサボってる回数も」
「トップだ。おめでとうと言ってほしいか?」
「ありがとう」
後半になるにつれて互いに棒読みになるが、意識は千歳だ。
「俺……千歳とは初等部の頃から一緒で一番仲がよかったのに、気づけなかった」
「黒羽からも事情を聞いたが、千歳がふらついているところを見たらしい。千歳は口止めをし、授業を強行した」
「だからあのとき、『千歳にパスするな』って言ったのか」
紫影は何も言わない。真実だから肯定しないだけだろう。
「その後にお前だけを懲罰房へ連れてきたんだな?」
「ああ、警備課に話は通してなさそうで、根岸の判断だったんだと思った」
「生徒への罰を与えるのは俺たちの仕事だ。誓約を破った教師にも、当然罰はある。おそらく今回はお前を犯すためにひとりにさせようと目論んだ結果だ」
紫影の瞳に射抜かれ、咲紅は目を逸らした。
見ていたいのに、見ていられない。
「まずは服を脱げ」
「………………は?」
逸らした目はまっすぐに彼を見つめる。冗談を言っている顔ではなかった。
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