十五夜 長崎奉行たちの不始末

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(四)長崎奉行の更迭 「いざとなったら、わしの首が飛ぶだけだ。やれ。」 「はっ。」 「腹まで切れとはならんだろう。わしが責任を取る。」 「はっ。」 長崎奉行の末吉利隆は、よくそんな指示の出し方をした。 松平政権はなんだかんだと言い掛かりをつけ、田沼政権下で黙認されてきた長崎の商習慣をつつきまわす。 江戸を出たことがなく、机上の空論が好きな松平定信の指示と、じっさいに長崎の民を治め、唐人や阿蘭陀人と交渉する現場は、あまりに違う。 長崎奉行の末吉利隆は腹を決めている。自分の首を飛ばせば、任期のあいだは取引ができるだろうと。長崎という町の命運や、貿易による国益をきちんと考えれば、これはじゅうぶんに価値がある犠牲だ、とも。 惣十郎はこの姿勢に感謝していた。ここのところ送り込まれる長崎奉行は長崎の人々に歓迎されない者が多いのに、末吉は苦労人だけあり気遣いのひとだ。 だが末吉についても、心配がないわけではない。 ーこのお方は長崎の貿易実務を知らなすぎる。それから交渉が下手だ。うまい具合に利用されてしまわないといいが… 長崎貿易で丁々発止とやりあうのは、江戸の役人の斜め上をいく連中だ。唐人、阿蘭陀人、手練れの長崎の年寄連中…末吉利隆のやり方だと、末吉ひとりが今の歪みの責めを負うことになる… 温情派の末吉にはできるだけ長く長崎奉行をしてもらいたい。末吉の代わりに強権的な長崎奉行が来たら、どれだけ荒れるかわからない。 だが惣十郎の心配は当たり、末吉は裁量を越える越権行為をとがめられ、更迭されることになった。俺が責任を取る…の責任をとうとう取らされる。 惣十郎は閉門処分になっている末吉利隆を、江戸に送り返す。 「松山どの、おぬしが心配なさっていた通りになったな。」 「いえ…こたびのことは、まことに…」 末吉利隆は惣十郎相手に、たわいもない世間話を始めた。 「将軍家斉さまは、幼くして茂姫さまと許嫁になられた。物言いがついたこともあったが、さきごろ茂姫さまは正式に御台所となられ、これで御安泰じゃ。」 「はあ…」 それから末吉は、抜け荷の対処にはじゅうぶん気を付けるように、市中の抜け荷は取り締まらないといけないが、抜け荷を摘発し過ぎてもいけないと思う、そう言葉をかけた。 末吉利隆は一橋家から殿中に送り込まれた家臣。将軍家周辺の表裏を知り抜いている。 ー何が言いたかったんだろう…? あぁ、と、しばらくして惣十郎は合点がいった。
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