十六夜 いざよう波のゆくえ

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十六夜 いざよう波のゆくえ

(一)水野忠通の長崎「改革」 江戸に二度目の着任をした水野忠通は、蘭語の誤訳をした、という愚にもつかない理由で阿蘭陀通詞を投獄しはじめた。長崎の町年寄も解任した。すでに前任期の終わりに阿蘭陀通詞の代表たる年番大通詞を処分し、長崎会所調役も処分していた。 長崎の町で尊敬されるあらゆる代表者を処分し、もしいうことを聞かない者がいれば、すぐに役人に捕らえさせた。 さらに出島のカピタンに阿蘭陀船は従来の2分の1しか入港を認めない、と通告した。今でも2隻しか入港しない阿蘭陀船なので、1隻だけ、ということだ。航海の安全性がそれほど高くない時代、1隻では丁半ばくちの確率でしか長崎にたどり着けない。 ーあちゃー… これがどんな結果をもたらすのか、なぜわからないのかと、長崎の実務方は頭を抱えるばかりだ。 いまや長崎の貿易からのは、御公儀にとって必要不可欠なもの。長崎奉行の俸禄も、任期中の貿易額に連動する定めだから、水野のこのやりかたでは世間も水野自身も損をするし、阿蘭陀も損をする。三方損だ。いったい、なんのためにこのような… 案の定だが、阿蘭陀側もそれなりの報復措置にでた。水野への当てつけのように阿蘭陀船は入港せず、長崎の阿蘭陀貿易はついにゼロになった。慌てた長崎奉行所からの問い合わせに、カピタンは余裕でこういった。 「今年は船が遭難したかも、しれませんねぇ…?」 長崎じゅうに水野への怨嗟の声がひびく。 さらに水野忠通の家臣たちは、長崎で捕らえた人々の釈放や目こぼしと引き換えに、袖の下を取っていた。江戸の勘定奉行である久世に長崎からの訴えが相次いで、これが発覚する。 ようやく水野が収賄で処分されるのと時を同じくして、もうひとりの長崎奉行、永井直廉も病死してしまった。 長崎奉行、不在。 追い打ちで雲仙岳の大噴火が始まった。寛政4年4月1日(1792年5月21日)のことだ。 島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)と呼ばれ、噴火と大地震が島原地域を襲い、その後に地滑りと津波が起きた。浅間山の噴火もかくやと思われる様子だった。 「打ちこわしが起きるぞ。長崎の外からの流民に気をつけろ。天下攪乱しようという連中には、またとない機会だからな。」 「はい!」 七蔵に警備の指示を出しながら、ぜったいに奉行所と町民の対立をあおってはいけない、と惣十郎は付け加えた。 ー次の長崎奉行がだったら… この大変な時期に、戸田や水野のように長崎の気質をよく知らず、慣習を尊重しない長崎奉行がきたら、もう終わりだ。惣十郎は祈るような気持ちで長崎奉行のを務める。 江戸からの報せが入る。 「勘定奉行の久世さまが、長崎奉行をいっとき御兼任、あらゆる相談にのるとのことです。」 ー助かった…! この非常時に長崎で絶大な人気をほこる久世広民が後ろ盾をしてくれるとは…!勘定奉行兼任なら、江戸とのいろいろな融通もしてくれるだろう。 惣十郎はすぐに周辺諸藩と連絡を取り合い、治安維持と支援の手立てをとる。だがこれで災厄は終わらない。島原藩の藩主が急に倒れた。被災地を元気に見回った直後に倒れ、それきり起き上がれないという。指導者をうしない、被害甚大な島原地域はさらに混乱をきわめた… ーいやもう、なんか、呪いでもかかっているのか? 惣十郎がそう思わずにはいられなかったとき、ひとりの男が長崎に派遣されてきた。
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