十六夜 いざよう波のゆくえ

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(二)久石新之丞 「おひさしぶりでございます、松山さま!」 「…あっ…眼鏡!じゃなくて、久石どのか!」 かつて唐人屋敷に抜け荷の密偵を放ったとき、女装して活躍…としておこう…した久石新之丞だった。 「お変わりなく、お元気そうで安心いたしました。」 「ああ…久石どのは…まったく変わらんな。」 「いえいえ、ずいぶんと老けましてございます。」 口ではそう言うが、かつて出会ったときと、まったく変わらない。怖いぐらいに若いままだ。ふつうに考えればあれから20年…40歳近いはずだが? 「あの相棒はどうなされた?工藤宇七郎どのは?」 「元気にしておられます。」 「そうか…こたびはどのような件で?」 見た目は頼りないが、この久石は政権中枢とつながる御庭番。何をしに来たのか…? 「こたびは、浄め祓いにまいりました。」 「は?浄め?」 「はい。」 よくわからないが、久石は災害の起きた地域にあらわれ、その被害を少なくし、人々の心を救うのだという。 「手はずとしては、どのような事をなさるのか?」 「まずは、いろいろと見てまわります。邪悪なものが入り込む隙が出来てないか、長崎中を見せていただきたい。それから簡単な結界を張ります。」 「けっ、かい…」 いそがしいときに、面倒なやつが来たかも知れない。結界で安全が張れるなら、なぜ火山がふたつも火を噴くのだ…ばかばかしい。 「もしかして…噴火も止められますかな?」 「それはできません。わたくしができるのは、炎によって起きる水の禍を封じること、人々を癒し、仲たがいを和解させることです。」 「はあ。ぜひご自由にやってくだされ。必要なものがあればお知らせを。」 惣十郎は笑顔でそう言うと、久石を厄介払いした。 その日より、久石はちょろちょろと長崎じゅうを歩き回り、人と話しているようだった。 数日後、ふたたび久石が現れた。 「もう行かれるのか?」 「はい。今度はもっと被害のひどい、雲仙に向かってまいります。」 「結界は張り終わられたのかな?」 「ええ。本職ではございませんので、簡単なものですが。」 ー結界張りにも本職があるのか。 「なにか、長崎で気になることは?」 「やはり…ではありますが、大きな呪詛の中にございます。」 「呪詛?」 たしかに、ここのところ、呪われている、と惣十郎も愚痴ったことがある。 「どのような呪詛であろうか?」 「これはたいへんに強い、政権転覆の呪詛でございまして…」 「政権転覆…」 「ええ。いにしえの聖人君子が闇に堕ちたときに生まれた、権力への妄執なのでございます。天下人を妬み、そねみ、その力を吸っては大きくなります。今回は二十数年前に成就した、炎と結びつき天変地異や大火を引き起こし、人々を分断する呪詛です。」 「はやく祓ってくだされ。」 「わたくしには無理です。」 久石はけろりとして言い放った。 「では、何をしてくださるのだ?」 「ですので、わたくしは起きたことの後始末がかりなのでございます。起きるのは止められません。」 「…」 ふつうなら頭がおかしいと思って打ち捨てるところだが、そういえば以前にも、久石の一行はおかしな力を次々と発揮した。 「そういえば、あの、火を起こす男のほう…工藤どのは何を?」 「あのひとは火を起こすのではありません。火の業を受け止めてやるのです。火には罪がありませんから。」 「なるほど。」 惣十郎は詮索をやめた。わからん。忙しいから理解するのは無理だ。 「それがしが長崎を守る立場としてできることは?」 「これから禍々しい人物が現れます。それから長崎を守れるのは松山さまおひとりです。」 「わかった。かたじけない。」 それからこれを…と、久石は惣十郎に本を取り出した。 「蘭書か?」 「わたしが書いた本草学の本です。毒消しをまとめたものです。長崎で、きっとお役に立つでしょう。」 「これはかたじけない。」 たしかに長崎奉行の不審死が多い。これは役に立ちそうだ。 「気を付けて向かわれよ。雲仙はまだ火を噴き終わっていないようだ。」 「ありがとうございます。松山さまも、くれぐれも気を付けてお過ごしくださいませ。」
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