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(五)暗殺者
惣十郎は平賀を誘って、差し向かいで飲むことにした。
「非常時と多忙にかこつけ、正式な歓迎の会もしておりませぬ。まことにお恥ずかしい。今宵はこの松山と平賀さま、なくなられた永井さまで、酒を酌み交わせればと…」
「お気遣いには、いたみいります。拙義父の永井も、松山さまにはいろいろとお世話になりましたな。」
「いえいえ。いつも部下の背中を押してくださる、度量の大きなお奉行さまでいらっしゃいました。」
惣十郎は意地が悪い。今夜は平賀をいじりたおすと決めたときから、容赦のない質問を繰り出し続ける。
「お義父さまの、あの、大事になさっておられた…」
「なんでしょう?」
「娘さま、つまり奥様より長崎に持たされたという、あの…名前が出て来んな。」
「ああ、あれですな。」
平賀がわかった、という顔をする。
「…何でしたかな。」
「ええ…道中守り?」
「いやいや、もっと娘らしい気遣いを感じる、あの…」
「…わかりかねますな…」
「そうですか…わからない…?さておき、永井さまは、たいへんに丸山遊女どもに人気のあるお奉行さまでした、ほら、あの男ぶりでいらしたから。」
「え、ああ。」
永井はそれほど男ぶりは良くなかったし、真面目で遊郭にもほとんど行かなかった。惣十郎はこの茶番を完全に楽しみ始めた。
「永井さまはご家臣を何人も連れて長崎にいらしたのです。ご存知ですよね?」
「えぇ…岡部なにがし…とかですかな。」
「そうそう、御家老の岡部保右衛門どのです。じつは、江戸に戻ろうとなさっているのを、平賀さまにお引き合わせいたしたく、追いかけたのですよ。間に合いました。」
「えぇっ!」
襖が開き、岡部がニコニコしながら座敷に入ってくる。
「いやいや、久しぶりに鉄之助さまとお会いできるとは…」
座敷の中をキョロキョロと見廻す。
「松山どの、鉄之助さまは、どちらに…」
「待たせたな、さきほど長崎に着いたのだ。」
ずいっと奥から顔を出したのは、本物の平賀だ。惣十郎がケラケラと笑う。
黙ってふてくされたように酒を飲む偽平賀を、惣十郎は一瞥する。
「おい、そろそろ、尻尾出せよ。」
「…」
「お前、どこの間者だ?」
立ち上がった平賀は、岡部保右衛門に通せんぼされて抜刀しようとする。惣十郎がその手首を捩じって制する。
「ここで刀を抜いたら、たいへんだぞ。」
惣十郎が偽物の平賀の耳元に囁く。
「…俺はやさしいけど、俺の部下は責めるの得意だよ…?手加減なしだと、みんな洗いざらい話すことになる。お前の御主君、お取り潰しになっちゃうんじゃないの?お互い、どの辺りが折り合いかな?ほどほどに手加減するよ?」
「…潰せるなどと…勘違いするな…」
「どうする?そうか。おい、七蔵!」
隣りの部屋から、七蔵が何人もの与力を連れて押し込む。惣十郎が七蔵に声をかける。
「そいつ舌を噛むぞ。気をつけろ。薬を飲んで自殺するかも知れん。」
「ファァァァッツ!チェストーッ!」
ぶち切れた偽平賀が何人もの与力を相手に乱闘をする。思いがけず強い。人を殺すための武芸を叩き込まれた、間者の闘い方だ。
「あきらめろ。あまり俺の部下をケガさせるな。今おとなしくすれば、あんまり痛いことをしないように言ってやれるぞ。」
「これからん長崎は斜陽ん一途やっど…上役ばっかい気にして国益を考えん江戸ん犬め!」
「は?」
「わいら役人が何人束になってん、将軍さぁがひとこと下されば、長崎は潰さるっど!」
我慢の限界だ。将軍家にまでつけ入る薩摩の連中め。
「お前らの好きになんかさせん!いいかァ…長崎って町はなあ…ふつうの町じゃ、ねぇんだッ…たとえちょっと落ち目に見えたとしても、長崎の町人たちは不屈だ…絶対に沈むことは…ねぇぞ…!」
「長崎長うおりすぎたね。よそ者んくせに…」
そう言うと男が白目を剝き、大の字に立ったままブルブルと失禁を始めた。とっくに毒を飲んでいたようだ。
「おい、解毒の…医者を呼べ…」
そう言った惣十郎も、どうっと倒れた。ぐるぐると空が回りながら降ってくる。胃からどくどくと何か逆流してくる…鉄くさい。血か?
ー俺、なに、飲まされた…?
惣十郎が意識を失っていく。
ーああ、俺も在任中に長崎で死ぬのか…うちは日蓮宗だが、長崎のどの寺に墓が立つんだろう…墓石に小便はしないで欲しい…な…
とうとう長崎奉行にはなれなかったな、と思いながら惣十郎は目を閉じた。
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