十六夜 いざよう波のゆくえ

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(五)暗殺者 惣十郎は平賀を誘って、差し向かいで飲むことにした。 「非常時と多忙にかこつけ、正式な歓迎の会もしておりませぬ。まことにお恥ずかしい。今宵はこの松山と平賀さま、なくなられた永井さまで、酒を酌み交わせればと…」 「お気遣いには、いたみいります。拙義父の永井も、松山さまにはいろいろとお世話になりましたな。」 「いえいえ。いつも部下の背中を押してくださる、度量の大きなお奉行さまでいらっしゃいました。」 惣十郎は意地が悪い。今夜は平賀をいじりたおすと決めたときから、容赦のない質問を繰り出し続ける。 「お義父さまの、あの、大事になさっておられた…」 「なんでしょう?」 「娘さま、つまり奥様より長崎に持たされたという、あの…名前が出て来んな。」 「ああ、あれですな。」 平賀がわかった、という顔をする。 「…何でしたかな。」 「ええ…道中守り?」 「いやいや、もっと娘らしい気遣いを感じる、あの…」 「…わかりかねますな…」 「そうですか…わからない…?さておき、永井さまは、たいへんに丸山遊女どもに人気のあるお奉行さまでした、ほら、あの男ぶりでいらしたから。」 「え、ああ。」 永井はそれほど男ぶりは良くなかったし、真面目で遊郭にもほとんど行かなかった。惣十郎はこの茶番を完全に楽しみ始めた。 「永井さまはご家臣を何人も連れて長崎にいらしたのです。ご存知ですよね?」 「えぇ…岡部なにがし…とかですかな。」 「そうそう、御家老の岡部保右衛門どのです。じつは、江戸に戻ろうとなさっているのを、平賀さまにお引き合わせいたしたく、追いかけたのですよ。間に合いました。」 「えぇっ!」 襖が開き、岡部がニコニコしながら座敷に入ってくる。 「いやいや、久しぶりに鉄之助さまとお会いできるとは…」 座敷の中をキョロキョロと見廻す。 「松山どの、鉄之助さまは、どちらに…」 「待たせたな、さきほど長崎に着いたのだ。」 ずいっと奥から顔を出したのは、本物の平賀だ。惣十郎がケラケラと笑う。 黙ってふてくされたように酒を飲む偽平賀を、惣十郎は一瞥する。 「おい、そろそろ、尻尾出せよ。」 「…」 「お前、どこの間者だ?」 立ち上がった平賀は、岡部保右衛門に通せんぼされて抜刀しようとする。惣十郎がその手首を捩じって制する。 「ここで刀を抜いたら、たいへんだぞ。」 惣十郎が偽物の平賀の耳元に囁く。 「…俺はやさしいけど、俺の部下は責めるの得意だよ…?手加減なしだと、みんな洗いざらい話すことになる。お前の御主君、お取り潰しになっちゃうんじゃないの?お互い、どの辺りが折り合いかな?ほどほどに手加減するよ?」 「…潰せるなどと…勘違いするな…」 「どうする?そうか。おい、七蔵!」 隣りの部屋から、七蔵が何人もの与力を連れて押し込む。惣十郎が七蔵に声をかける。 「そいつ舌を噛むぞ。気をつけろ。薬を飲んで自殺するかも知れん。」 「ファァァァッツ!チェストーッ!」 ぶち切れた偽平賀が何人もの与力を相手に乱闘をする。思いがけず強い。人を殺すための武芸を叩き込まれた、間者の闘い方だ。 「あきらめろ。あまり俺の部下をケガさせるな。今おとなしくすれば、あんまり痛いことをしないように言ってやれるぞ。」 「これからん長崎は斜陽ん一途やっど…上役ばっかい気にして国益を考えん江戸ん犬め!」 「は?」 「わいら役人が何人束になってん、将軍さぁがひとこと下されば、長崎は潰さるっど!」 我慢の限界だ。将軍家にまでつけ入る薩摩の連中め。 「お前らの好きになんかさせん!いいかァ…長崎って町はなあ…ふつうの町じゃ、ねぇんだッ…たとえちょっと落ち目に見えたとしても、長崎(ここ)の町人たちは不屈だ…絶対に沈むことは…ねぇぞ…!」 「長崎(こけぇ)長うおりすぎたね。よそ者んくせに…」 そう言うと男が白目を剝き、大の字に立ったままブルブルと失禁を始めた。とっくに毒を飲んでいたようだ。 「おい、解毒の…医者を呼べ…」 そう言った惣十郎も、どうっと倒れた。ぐるぐると空が回りながら降ってくる。胃からどくどくと何か逆流してくる…鉄くさい。血か? ー俺、なに、飲まされた…? 惣十郎が意識を失っていく。 ーああ、俺も在任中に長崎で死ぬのか…うちは日蓮宗だが、長崎のどの寺に墓が立つんだろう…墓石に小便はしないで欲しい…な… とうとう長崎奉行にはなれなかったな、と思いながら惣十郎は目を閉じた。
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