十六夜 いざよう波のゆくえ

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(六)愛するものたち 惣十郎の最後のときは、近づいている… ぼんやりと昔のことを思いだす…若くてやんちゃな頃の賭場仲間、兄の説教、おひさとの初夜、胡蝶とのむつみあい、子供たち…長崎、大阪、思案橋、江戸の我が家…あれは全額返済するまで、ずいぶんかかった… ぼんやりと人影が見える。 右が…おひさ。愛しい妻。 左が…胡蝶。離れられない恋人。 ーどっちにも、さよならありがとうを言えなかったな… 惣十郎は愛するふたりの面影に…右手をおひさに、左手を胡蝶に伸ばす。だが届かない。 ー夢でもいい、せめて死出の土産に乳でも…さわっておこう… 夢まぼろしとはいえ、右手におひさの乳、左手に胡蝶の乳を感じながらあの世に行ければ、これ以上の僥倖はない…しかし届かない。おひさに伸ばした右手はピシ、ピシ、と叩かれ、胡蝶に伸ばした左手はやさしくほいほいと払われてしまう。 ーまるで俺の人生、恋、そのものではないか… 惣十郎が諦めて力尽きた両手を下ろす。 「こら、惣十郎!いい加減にせんか!」 大声がした。はっと目を覚ます。 枕元にはおひさ、胡蝶、父が揃っていた。次男の惣助もいる。久しぶりだ。 長崎いちの蘭方医が惣十郎に微笑みかける。 「松山さま、お気が戻られましたか!」 「これは…」 「解毒の蘭書が役に立ちました。」 「そうか…久石のあれか。」 惣十郎が起き上がり、顔を撫でる。無精ひげの長さからいうと、ずいぶん長いこと昏睡していたのだろう。おひさと惣助が江戸から来たのだから、少なくともひと月?いや、もっと?父もよく紀州から駆けつけたものだ…親とはありがたい。 惣十郎が目を覚ましたと聞き、部下の七蔵も顔を出す。 「俺がいなくなれば、江戸からのうるさい役人がひとり減ったのに…おまえら助けたのか。」 「松山さまは死んだら困るお役人ですからねぇ。」 「そうか。」 まんざらでもない。 「お奉行さまが入れ替わり、立ち替わり、コロコロとやり方を変えるなかで、松山さまがいなくなったら困ります。町役人はみんなわかってます。」 「惣十郎。よくやった。お前がこたび命をかけて下手人をあげたこと、長崎で御役に尽くしたこと、父は…」 父が安堵と喜びで泣く。医者が困ったように口をはさむ。 「少し、お静かにして…松山さま、もう少しお休みくだされ。」 おひさがそれを聞き、まぁまぁと背中をさすり、父を部屋の外に連れ出す。 ごほん、と惣助が咳払いする。 「ああ、すまんな、惣助。来てくれてありがとう。」 「いえ、オレも仕事ですから。」 「奉行所の仕事か?」 「この辺りの下調査に派遣されました。噴火と水害後の検分は、近ごろオレの専門ですよ、父上。」 「そうか…浅間山の後始末をしたもんな。」 「まだお疲れでしょうから…今日はこれで。」 「おう。すぐ元気になるぞ。またな。」 さいごに残った胡蝶がもじもじとしている。 「お蝶…ありがとう。」 「うち、誤解しとった。松さまのこと。」 「そうか。」 「元気になられたら、また……ね。」 「ああ。」 「松さま…生きとってくれて、うれしか。」 胡蝶がふわっと顔を近づけて、額に口づけをしてくれた。いい香りがする。いつもの惣十郎ならこのまま胡蝶を布団に引き込んでしまうが、今日は力が出ない…眠気がふたたびおそう。 ー早く元気にならなくては…今ならおひさも胡蝶もきっとくれそうだ…この機会を逃すわけには…
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