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頬に鈍い痛みを感じ、闇に沈んでいた意識が浮上する。ぼんやりしたまま瞼をゆっくりと押し上げれば、一人の男がこちらを覗き込んでいることに気づいた。
「起きたか?」
艶やかな黒髪、深紅の瞳、綺麗な顔立ちをした──妖魔。
「……っ、うわっ……!」
瞬き二回くらいで現状を思い出した奏は、慌てて起き上がろとして失敗した。どうやら公園のベンチに寝かされていたようだが、上体を起こそうとして妖魔の顔にぶつかりそうになり、ベンチに逆戻りしてしまったのだ。一切避けようとしないのはどういうことだ。
一瞬、恐慌をきたした奏だったが、赤い瞳が愉快そうな色を湛えているのを見て怒りが先に立った。
「どけよ、吸血鬼!」
気を失う直前の出来事を思い返し、歯噛みする。
目の前の存在は、妖魔の中でも大物と断定して間違いない『吸血鬼』だ。むざむざ血を与えてしまったという事実が情けなくて、悔しい。
「短い時間とはいえ一応見張っててやったのに、礼もないのか? 無防備な退魔師なんて、俺たちにとっては格好の餌だ。あのまま放っておいたら、他の奴に取り憑かれるか喰い殺されていた可能性が高いんだが」
「そんな状態になったのは誰のせいだ!」
「ご馳走様、うまかった」
両手を合わせて食後の挨拶をするという人間臭い仕草が、余計に奏の怒りを煽った。けれど、お陰で邪魔だった頭が頭上から退いたため、その隙を突いて上体を起こす。立ち上がりとともに相手の懐に入り込み、右手に意識を集中させた。
しかし、瞬時に足払いをかけられ体勢を崩される。倒れそうになる寸前、腕を掴まれた。
「判断の早さは認めるが、無鉄砲さが否めないな。せっかく生かしてやったんだから、もう少し慎重に動け」
「っ!」
ぎりぎり、と食い込む指の痛さに顔を顰めると、吸血鬼は急に興味をなくしたかのように奏をベンチに放り出した。ゴミを捨てるような軽い動作に腹が立って睨みつける。
見上げた奏の目に映ったのは、獲物を見つけた猛獣のような笑みだった。
「いい退屈しのぎが出来そうなんだ、そう簡単に死んでもらっては困る」
一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥る。低まった声、眇められた瞳。たったそれだけのことで、奏は動くことが出来なくなっていた。
感じているのは、本能が捉えた恐怖だ。
だが、彼からのプレッシャーは、ほんの少しの沈黙ののち、あっさりと空気に溶けた。
「ところで、一つ訂正がある。俺は吸血鬼ではない」
「……はぁ?」
しっかり血を吸われている身としては、何を言ってるんだこいつ、という顔をしても許されるはずだ。怪訝な顔をした奏に、相手は駄々っ子を見るような目線を向けてきた。
「確かに人間の血は糧だが、お前らが認識している外つ国のそれとは種が違うんでな。十字架も効かんし、吸血行為で仲間を増やすこともない」
「え、じゃあマジで『何』なんだ、お前?」
血を餌とする大物の妖魔で、吸血鬼ではない種族など奏は知らない。驚きのせいでうっかり素直に問いかけてしまうも、相手はつまらなさそうに肩を竦めた。
「さぁな。お前らからすれば、血を吸うモノは『吸血鬼』なんだろう?」
「いや、人間の雑な分類に妥協するなよ」
外つ国、と口にしていたのだから、少なくとも日本産の吸血妖魔ということなのだろう。思い当たる名前がない、と眉間に皺を寄せていると、なにがツボに入ったのかは知らないが、妖魔がくつくつ、と喉を鳴らし始めた。
「お前、本当にいいな」
「……お前はよくわかんないな」
正直、なぜ殺されていないのかわからないまま、この男と会話を続けている。セリフの端々から、侮られているからこそ気紛れによって命を見逃されていることは察しているが、その理由は不明のままだ。ふとした拍子に気が変わるかもしれないと警戒をしつつ、奏は困惑していた。
さっき感じた恐怖は、まだ払拭できずにいる。それでも、取り乱した様子を表に出さずにやり取りを交わしているのは、ただの意地だ。
そんなこちらの様子を知ってか知らずか、相手はやたらと上機嫌だった。
「一つ、良いことを教えてやろう」
悪戯を思いついた表情で一歩近付いてきた妖魔の唇が、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「俺の名は、キオウだ」
──奏はまず、自分の耳を疑った。
「…………は?」
自分の中の怒りや疑念や恐怖、そんなものが全て一瞬で消し飛ぶ。
ただ、呆然とした。
名は縛りだ。個の存在を現世に縛る唯一の言葉。特に妖魔にとっては、滅多なことでは明かすことのない、命の次に大切なもののはず。
「稀に中央の央と書いて、稀央。覚えたか?」
「き、おう」
驚きすぎて開けっ放しになっていた口を何とか動かし反復すると、稀央はぴくり、と肩を揺らして息を吐く。
「やはり、名の縛りはきついな」
呟きは独り言のようだったが、近くにいる奏には当然聞こえていた。
まさか、本当に、真実の名を奏に教えたのだとしたら。
「お前、馬鹿じゃねぇの……?」
「言っただろう、退屈しのぎだと」
傲慢さが滲み出ている笑みを見て、奏もつられるように笑う。愉快だからではない、この状況が余りにも馬鹿馬鹿しいからだ。
「それで死んでも構わないって?」
「今のお前が、名を知ったくらいで俺を殺せると思うか?」
言霊は、それを発する者の力が強ければ強いほど効力を発揮する。命じる内容が重ければ重いほど言葉を操ることは難しくなるし、命じられた者の拒絶が強ければダメージは発した者に跳ね返ってくる場合もある。奏はそう教わっていた。
名を使って迂闊に命じれば、おそらく死ぬのはこちらだ。
「……できない、だろうな。今は」
稀央は強い。今の自分が太刀打ちできないくらい。その悔しい事実に、唇を噛み締める。
「なら、精々頑張って強くなれ。俺を捕まえてみろ。それまでは、他の人間は襲わずにいてやるから」
頬に掌が添えられたことに気づき、いつの間にか俯いていた顔を上げる。そんなこと信じられるか、と言い返そうとした奏の唇が相手のそれで塞がれた。
(………………は?)
あまりにも急な出来事に、思考が停止する。硬直している間に下唇を吸われ、最後にべろり、と舐められた。
「……な、に、……はぁっ!?」
「血がもったいないだろう」
慌てて唇を舐めれば、微かに鉄の味がする。吸血されている最中に傷つけたところを、再び噛んでしまったらしい。
違う、問題はそこではなくて。
「お前の距離感どうなってんだよ!!」
「はぁ? ……あぁ、たかがこんなことで意識するほど閨の機会がないのか、お前」
からかいのない、ただただ憐れみの眼差しを向けられ、カッと頬が赤くなるのを感じた。今、もし羞恥心を武器にできるのなら、目の前の妖魔も殺せる気がする。
「てっとり早く快楽だけを感じたいのなら、また次も噛んでやろう。血を吸われるのは、気持ちよかっただろう?」
「死ね! クソ妖魔!!」
吸血中の快楽は、確かに経験したことのないものだった。だが、憐れみで敵に施されていいものではないし、簡単に血を吸われることは屈辱でしかないし、そもそも気持ちよくなりたいわけではない。
(ていうか、さっきの、オレ、初めて、で)
二重に心を抉られ、情けなさと恥ずかしさで稀央を腕を振って遠ざける。意外にも、彼はすんなりと身を離した。
「今夜はこんなところか。呼びかけには応じてやるから、俺を退屈させない程度には名を呼べよ」
言いたいことは言い終えたとばかりに、赤い瞳があっさりと闇に溶け込む。瞬きひとつの合間に、稀央の姿は消えていた。
「誰が呼ぶか……っ」
取り残されたこちらの叫びは、果たして相手の耳に届いたのかどうか。
本当に気配が消えていることを確認してから、奏はベンチに体を投げ出した。はぁ、と重い溜息とともに脱力する。
(……生きてる)
どっと汗が噴き出した。気軽に口をきいていたが、先程まで目の前にいたのは自分を指先一つで殺せる妖魔だ。いつ気が変わって命を取られるかわかったものではなかったのだ。
「つかれた……」
なんとか先程までの展開を整理しようと思うものの、まだまともに頭が働かない。
吸血鬼と分類されるハイランク妖魔に出会い、血を吸われ、けれど命は奪われず、なぜか名を教えられた。
(こんなの、誰が信じるんだよ……)
けれど事実なのだ。おそらく残っているであろう首筋の噛み跡を見せて説明するしかない。祖父の心臓が止まらないといいのだが、と余計な心配が頭を過ぎった。
(……呼べって、なに)
多分、一番の問題はそこだ。倒すことも出来ずに名を教えられ、再び顔を合わせることを半ば強要されているなんて、妖魔に取り憑かれたようなものではないか。わけがわからない。
退屈しのぎだ、と彼は言った。暇を持て余しているからこその遊びなのだ、と。
「…………どうしよう」
本当に厄介なことになった。
考え方を変えれば、これはチャンスでもある。他の手練の退魔師を呼びよせ、妖魔を滅する環境を整えてから奏が名を呼べば──本当に姿を現すのならば──あれを倒せる可能性があるのだ。祖父に今夜のことを説明すれば、きっとそのように動くだろう。それが、正しい退魔師というものだ。
だが、嫌だと感じる自分を奏は自覚していた。そんな形であの妖魔を滅ぼしたくないとどうしても思ってしまう。
馬鹿な考えだと理解はしている。けれど、接した彼の言動に嘘はないように見えたのだ。
奏が強くなって倒すまで、他の人間には手を出さないと言っていた。普通なら、到底信じられない言葉だ。信じてはいけない戯言のはずだ。
(でも、じゃあなんで、オレに名前を教えたんだ?)
相手だって馬鹿じゃない。退魔師が待ち構えている場に呼ばれる可能性は思いついているはずだ。相当強い妖魔だろうと、周到に用意されていればたとえ倒されずとも捕まることはある。
それでも、あえて奏に真名を告げたのだとしたら、それは一種の信頼ではないだろうか。
(アイツにとってこれは遊びで、その遊びにオレなら付き合うって判断したんだ)
だから、捕まえるならこの手で……誰でもない自分が相手をするのだ、と。
「……わかってもらえるわけないよなぁ」
胸の内に宿った、例えようのない複雑な感情を落ち着かせようと目を瞑る。
祖父に伝えるか、己の胸の内だけに留めておくか。帰るまでに判断しないといけない。
(ちょっと面白そう、とか)
一瞬とはいえそう思ってしまった自分はきっと、頭がどうかしている。
「馬鹿か、オレ……」
それでも、闇夜に輝く美しい赤が脳裏に焼きついて離れなかった。
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