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─1─
「ひどいよ……」
ひどいよと言ったって、俺は既婚者なんだから、本気になる方が悪いよな。
──重いんだよ、どの女も。
「夏希、また女の人、傷つけたんでしょ。ひどい男ね、ほんと」
「重いんだよ。最初は遊びでもいいって言うくせに、最終的に本気になってすぐ結婚、結婚って」
「だって、今回の女性は違うでしょ? 結婚してること最初は隠してるって言ってたじゃない。そんなの、好きになってから既婚者でしたって言われても、そう簡単に忘れられほど、人間は単純じゃないのよ。それに、三十八歳でしょ、その女性。年齢的にも結婚したいって思っても不思議じゃないわ。女には子どもを産める期間が決まっているのよ? 何歳になっても産めるわけじゃないの」
「そうかもしれないけどさ……」
「そういえば、奥さんと別れるとかちらつかせたんじゃなかった?」
「いや、それは……あれだよ、あれ。お金がさ……」
「はあ。ほんと最低な男よね。いつか天罰が下るわよ」
「もういいよ。それより、やっぱりお前が一番だよ。美人だし、口も堅いし、重いことも言わないしな。だから、もう一回、いいだろ?」
「はあ? もう無理よ。今日、夜勤なんだから少しでも寝たいの」
「一回だけだから、お願い!」
「──もう、仕方ないわね」
陽向とは、もう十年の付き合いになる。俺が、二十八歳で結婚する前からの関係だ。不思議なことに、付き合うという話は一度も出たことがない。一番近くで俺のクズっぷりを見てきたのだから、それも当然か。
陽向の家には、だいたい仕事帰りに寄ることが多い。まっすぐ家に帰る気にはなれず、つい寄り道をしてしまう。
妻との関係はとっくに冷え切っていて、息苦しく、一秒でも家にはいたくない。ここまでの状態になってしまったのは、当然、俺の浮気が原因なのだが……。不思議なことに、今のところ、離婚の話は一度も出たことがないし、俺から言うつもりもない。
「ただいま」
「あなた、ちょっと話があるんだけど」
このパターンは、浮気がバレた時だと決まっている。どうやって切り抜けるか、腕の見せ所だ。
「なんだ?」
「今日、あなたが仕事に行ってから家に電話がかかってきたのよ」
「どこからだ?」
「──警察から」
警察? 思いも及ばない相手からの電話に、激しく動揺する。
「なんで、警察から……」
「あなたに用があるって」
「俺? 俺なんにもしてねーよ」
「したつもりがなくてもね、してるのよ……」
どういう意味だ?
「要件は聞いてくれたのか?」
「ええ。あなた、今、何人女がいるか知らないけど、その内の一人が自殺したみたいよ。遺書にあなたへの恨みをびっしりと書いてね」
何? 自殺だと? 流石の俺も血の気が引く。こうならない為に、ケアを怠らないようにしてきたはずだが。
「思い当たる人が多すぎてわからないんじゃない?」」
真っ当すぎて、返す言葉もない。
「そんなこと……あるわけないだろ。で、誰なんだ?」
「柳原真奈美」
なんだと……別れたのは昨日だぞ。あのあとすぐに自殺したというのか?
確かに、いつもの女とは違い、逆上するわけでもなく、ただ一言「ひどいよ」とだけ言い、終わった。あの時、既に自殺を決めていたというのか?
「それで、警察はなんで俺に電話をかけてきたんだよ。殺してなんかいねーよ」
「ばかね、そんなことわかってるわよ。彼女、身寄りがいないみたいなのよ。だから遺書に名前が書いてあって、スマホに唯一名前が残っていた、あなたに電話がかかってきたわけ。でもなぜ、家の電話だったのかしらね」
身寄りがいないだと? 三年も付き合ってきたが、そんな話、ひとことも言っていなかったぞ。てっきり、お金を持っていたから、家が裕福だとばかり……。
「だからって、俺にどうしろっていうんだよ」
「彼女、自殺を図ったけど、死んでないのよ……。脳死状態なの」
「──脳死」
聞き慣れない言葉に、理解するまで時間がかかる。
「彼女、臓器提供の意思を示すカードを持っていたから、基準が通れば、臓器を摘出するそうよ」
「そうか……」
ここで何を言おうが、俺の口から発せられる言葉は軽く聞こえ、妻の逆鱗に触れるだけだ。
「彼女ずっと一人で生きてきたみたいなの。死ぬ時も一人……。そして、こんな男に騙されて。呪ったって呪い足りないわよ」
「ひどい言いようだな」
ソファーに座っていた妻が立ち上がり、自分の部屋へと入っていく。ほどなくして、俺の前へ戻ってきた。
「あなた、これ」
手渡された封筒を受け取り、中身を見ると、離婚届けだった。
「これ……」
「見た通りよ。今まで何度浮気をされても我慢してきたわ。それはね、既婚者だとわかって近寄ってきた相手の女も悪いと思っていたから。でも、今回は、あなたが完全に悪いわ。しばらくの間、結婚していたことを黙っていたみたいじゃない。それに、私と別れて、彼女と結婚するとチラつかせながら、お小遣いまで受け取っていたんでしょ。借金をして、あなたに貢いでいたみたいよ。今回ばかりは、許すことができないわ──別れてちょうだい」
何も言い返すことはできなかった。俺は、彼女に言われるがまま、離婚届に判を押し、離婚が成立した。
ここからの妻の行動は早かった。次の日には自分の荷物をまとめ、仕事から帰って来た頃には、既に、妻の姿はなく、それどころか、妻がいた痕跡さえ全て消えていた。まるで、俺と結婚をしていたことを、人生から抹消するかのように……。
今日は珍しくまっすぐ家に帰ってきたというのに……。陽向の家にでも行くか。
慰めてもらおうと、陽向の家に向かった。外に出てすぐに連絡をする。
「今から行ってもいいか?」
「あら、今日は来ないかと思っていたわ。まあ、いいわよ。ちょうど話したい事もあったし」
「話したいこと?」
「ええ。来てから話すから」
「わかった」
陽向の話も気になるし、俺の話も早く聞いてもらいたく、いつもより早足で向かう。心なしか風が冷たく感じるのは、妻がいなくなったことによる傷心のせいなのか、それとも、季節柄なのか。もう十一月だ。いつ、雪が降ってもおかしくはない。
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