移植

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─4─  少しずつ運動もはじめ、いつもの日常が戻ってきていることに幸せを感じている。それに、困った時は、仲良くなった看護師さんが家に来てくれる。俺は順調だ。  退院をして、一か月が経った頃、ある異変に気付く。 「俺……これ好きだったかな……」  甘いアイスが無性に食べたいのだ。以前は甘いものは苦手で、どちらかというと避けてきた。それなのに、今は、毎日アイスやチョコレートといった甘いものがないと、口寂しいほどだ。  しかし、異変はこれだけではなかった。全くやってこなかった料理をはじめたのだ。今まで料理は妻任せで、自分で作ったことなど、一人暮らしの時代でもほぼ無いに等しい。  料理をはじめたまではいいのだが、知識が全くないのにもかからわず、野菜の切り方、魚のさばき方、味付け……。それらを、何も見ずとも手が覚えているのだ。  この不気味な現象は、移植の影響なのか、一度、担当医に相談してみた方がよさそうだ。  次の日、ちょうど診察日だったため、先生に異変について聞いてみた。 「──なるほど。医者の私が言うのもおかしいのですが、そういう不思議な症例は確認されています。医学的根拠はありませんが、ドナーの記憶が臓器に刻まれていて、性格や趣味が変わり、別人のようになるという事例も少なからず報告されています。しかしそれは、時間が経つにつれ、消えていくことがほとんどだそうです」  臓器の記憶か……。根拠はないが、元の持ち主は女性のような気がしてならない。料理が得意で、甘いものが好き……。  そう思うと、その女性の為にも一生懸命生きていかなければならないと、気が引き締まる。  臓器の記憶の話を聞いてから、なんだか俺の体の中にその女性も一緒にいるような気がし、恥ずかしい生き方はできないと思うようになっていた。誰かの命が消え、そして、俺に引き継がれた。  移植をし、あんなにもクズだった俺の性格が、少しずつだが、改善されてきているのは間違いなかった。  診察から、一週間後の夜。俺はうなされ、目が覚めた。  着ていたグレーのトレーナーの色が変わるほど汗をかいている。 「今のは、なんなんだ……」  夢から覚めても、一向に落ち着く様子をみせない鼓動。  悪夢と言っていいのかわからないが、真奈美が目の前に立っていて、ただこちらを見つめているという夢だった。  その、なんの変哲もない光景が、なぜが薄気味悪く、目に焼き付いている。とても、もう一度寝る気にはなれず、部屋の電気をつけようとベッドから出た。ついでに着替えもするとしよう。  部屋の電気のスイッチをオンにしたはずが、明かりがつかない。何度も入り切りする。  やはりだめだ。 「こんなときに、切れるなんて」  蛍光灯の替えを、玄関の棚に取りに行くも、見当たらない。 ──待てよ、昨日替えなかったか? 替えたばかりでつかないなんておかしい……。  他の電気もつけてみるも、どこもつかない。 「停電か?」  窓の外の明かりをチェックしてみるが、停電はしてなさそうだ。 「確か、懐中電灯がどこかにあったはず」  少しずつ目が暗闇に慣れ、スムーズに寝室のクローゼットに向かう。寝室に入り、クローゼットを漁っている時だった。背後から、聞き慣れない音がする。 ──軋む音。  それに気づいた瞬間、背中が嫌な予感を察知し、振り向くことを拒否している。  軋む音は、ゆらゆらと揺れているように、一定のリズムを刻んでいるようだった。 「これって……まさか……」  頭に浮かんだことを、すぐに後悔した。  真奈美は首を吊り、死んだ。遺書には、俺への恨みがびっしり書かれていたと、妻が言っていた。首を吊った真奈美が、俺を呪うため、後でゆらゆらと揺れている音でではないのか?  だめだ、確かめずにはいられない。自分の目で見て、勘違いだと、気にし過ぎだと確認したい。    目線を下げたまま、ゆっくりと、ゆっくりと振り向く。  完全に振り向き、少しだけ視線を上げる、少しだけ……。  薄目を開け、狭い視界に入ってきたのは、水色のマニキュアを塗った素足。だらんと伸び、ゆらゆらと揺れている。そして、その度に軋む音が聞こえて来る。     俺は知っている、この足を──。    真奈美はいつも水色のマニキュアを、足の爪に塗っていた。なぜなら、初めて会った時、俺がそれを褒めたからだ。それは三年間変わることはなく、常に水色のマニキュアを塗っていた。 ──間違いなくこの足は、真奈美だ。  振り向いたことを満足したかのように、程なくして、消えていった。それと同時に、部屋に明かりが灯った。 「今のは……」  冷たい汗が、びっしょりと服を濡らし、体を冷やしていた。 「風邪引くな……」  脱衣所に行き、全身着替えることにする。気持ちはシャワーに入りたいのだが、こんなことがあった後ではさすがに気が引ける。タオルで体を簡単に拭き、着替えを済まし、リビングへと戻る。  眠れなくなった俺は、コーヒーを淹れ、心を落ち着かせることに。  コーヒーの良い香りに、気づかぬうちに、鼻歌を口ずさんでいた。 「これ……なんの曲だ?」聞いたことはあるが、なんの曲だったか覚えはない。不思議な感覚だ。  ソファーに腰掛け、カップを口に運ぶ。鼻腔から脳に香ばしいコーヒーの香りが伝わり、気分がよくなったのか、また、鼻歌を口ずさむ……。  俺はいつから、この鼻歌を……。
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