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「おひとりですか?」
「はい?」
パスタを絡めたフォークを口に運ぼうとしたとき、上から見知らぬ男の声がした。
顔を上げると、そこにはシルクハットをかぶった青年が立っていた。明らかに不審者と言っていい風貌だ。
西谷が黙りこくったまま男をじっと見つめていると、再び彼は口を開く。
「僕は一人です。あなたは?」
「ボクも一人ですけど……どなたです?」
「それは良かった。では失礼します」
「あ、ちょっと……!」
謎の男は実に嬉しそうな顔をすると、躊躇することなく向き合いの席に腰を下ろした。
「僕は何を頼もうかな……?」
早速メニューを眺めながら、眉をひそめている。
「あの、勝手に座らないでいただけますか」
「僕に言ってます?」
「あなたしかいないでしょ」
休日のこの時間、客は幼い子をつれた夫婦くらいしかおらず、閑散としている。もちろん、空席はいくらでもあった。
「それはすみません。つい、その制服が目に入ったもので」
「制服?」何か付いているのか、と制服を見直すが、特に汚れなどもない。「それがどうしたんですか」
「蒼海高校の生徒ですね?」
「ああ……」そういうことか。「そうですけど。あなたは?」
「蒼海高校は、やはりほかの高校とは景色が違いますか」
「さあ」西谷はほかの高校を知らない。「そんなに気になりますか、蒼海高校が」
ひょっとして、来年度の入学希望者だろうか。いや、それほど若くはない。では彼の家族の誰かが通っているとかだろうか。
いろいろと考えを巡らすが、揣摩臆測したところで答えは導き出せない。
「それはもう、全国でもトップレベルの高校ですから」
聞き飽きた決まり文句だ。やはり、蒼海高校にたいしてかなりの興味があるらしかった。
「ところで、誰なんですか」
「あそこにアジサイが咲いてますね」
男は窓の向こうに視線を向ける。もともと惚けているのか、それとも故意に西谷の質問をかわしているのか。
「アジサイの葉には毒があるので、気を付けた方がいいですよ」
仕方なく、西谷は男の話題に乗っかった。
冬城はこちらを向いて、目を丸くする。意外にもかなり整った顔立ちだった。それも、この自分と伍するくらいのルックスだ。
「詳しいんですねえ」
「と言っても、毒性成分はまだ判明していないんですけどね。定説では青酸配糖体によるものとされていたんですが、本来あるはずの窒素が含まれていないことからこれは否定されています。詳しく話せば長くなるんですが」
「へえ~」
今までの話を全て聞き流したのか、冬城は馬鹿みたいな表情で相槌を打った。
ルックスは肩を並べるだろうが、当然ながら頭脳はこちらの方が上である。
「植物は、意外と謎に満ちているんです。我々が思うより、ずっと人間味があってね」
「人間味?」
「生存本能が強いんです」
「生きてるんですか?」
「生物学的には生きてます」まずそこからか。「植物は、動物と同じで多様性に満ちているわけで、他の種と異なることで生存競争に勝つことができる」
「なるほど。多様、というと?」
「たとえば、本来植物は水と二酸化炭素、太陽光によって養分を作ることで成長しますが、食虫植物はそれと同時に虫や微生物をとらえて消化することで、さらに栄養を得ているわけです。これは、食虫植物の生息する環境では十分な栄養を得ることができないことから、他の生物からエネルギーを摂取できるように進化したためだと考えられています。これも多様性です。与えられた環境で生存するために、植物も進化していくんです」
「うーむ、動物の進化はダーウィンの進化論から何となく想像できますが、植物の進化はあまり想像できないですねえ」
冬城は苦し気にそう言った。まあ、普通の人ならばそうなのだろう。
「人間っぽくないですか?」
「言われてみれば、そうですね」冬城はそこで思いついたように言う。「たとえばアサガオなんかはどうです? なぜ朝しか咲かないのでしょう。それも、生存戦略ですか」
「アサガオは、朝に咲くというよりは日没から約十時間後に咲く、といった方が正しいですね。咲く時間は時期によって異なります。水分が少なくなるとしぼむので、暖かいほど早くしぼんでしまいます。それから——」西谷は言葉に詰まった。知識不足だった。「短期間しか咲かないことでエネルギーを効率的に使う、みたいな意味があるのではないですかね」
「っていうことは、憶測ですか?」
「すみませんね」
あれ以降、植物マニアと言っても遜色のないほどの知識を持っていると自負していたが、短期間で情報を詰め込むのはあまりよくないらしい。
「それほど詳しいのなら、気が合ったかもしれませんねえ」
数秒の沈黙ののち、男はそう呟いた。
彼のテーブルのうえには、まだ何も置かれていない。まるでただ西谷と話したいがためにここに来た、というように。
「気が合う?」
まさか、この程度で彼も植物が好きだといいたいのだろうか。
そう拍子抜けしていると、男は何やら訳知り顔でにやりと笑った。
「吾妻進さんをご存じですか?」
予想していなかった単語が鼓膜を震わし、西谷はびくりと体を震わした。ドクン、と心臓が脈打つ。
「ああ、生物基礎の教師ですね。彼の知り合いですか」
「僕は彼をよく知っていますが、彼は僕のことを知りません。一方的な面識というのでしょうか」
「彼を探しているんですか」
「いえ、もう亡くなっています」
「なんだ、知ってるんだ」そんな軽い言葉が口から洩れた。焦りを誤魔化すように、お冷で喉を潤す。「ボクも今朝、知らされました。学校はしばらく休校らしいです」
「それだけ植物に詳しいなら、吾妻さんと仲が良かったのでは?」
「ああ、そういうことか」先ほどの言葉の意味が分かった。「あまり知りませんでしたね、彼のことは」
相手が刑事とかならば嘘はつかなかっただろうが、よく知らない男を相手に、人間関係を正直に答える必要はないだろう。
しかし、いったい何のための質問だろうか。吾妻とは一方的な面識がある、と言っていたが、それはどういう意味なのだろうか。
彼が窓を眺めている隙に、その姿を凝視してみる。そして驚いた。
真っ赤だ。
見たこともないくらいに、男は全身真っ赤に染まっていた。
瞬きをして、もう一度彼を見る。完全に目が合った。
「どうしました?」
「あ、いえ」とてつもない危険信号……。この阿保面から? ありえない。「ところで、あなた誰なんですか? いい加減、教えていただかないと——」
「冬城拾壱郎といいます。以後、お見知りおきを。あなたは?」
「あ......ああ、西谷望です」
案外あっさりと名乗ってくれたので、ここはフェアに西谷も名乗った。
すると冬城と名乗った男は、いかにも満足気な表情をして、席を立った。まさか、本当に西谷と話すことだけが目的だったのだろうか。
そして、先ほど冬城にかかった赤色のフィルターはいったい何だったのだろう。まさか、西谷の感覚が鈍ったのだろうか。
どうやら、自分が思っている以上に、疲れているらしい。
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