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 初めは緑色だった。  水の中に絵の具を落としたような映像が、脳内に浸透する。  色はやがて青に変わり、そして赤になる。危険信号だ。  西谷望(にしやのぞむ)は、こちらに背中を向ける男を見つめながら、ふっと口角をあげた。  危険信号?   何を言っているのだろう。この自分の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に、危険な要素など何もない。自分の計算は常に正しい。  西谷は生まれてきてから今まで、失敗というものを経験したことがなかった。  それは、自分の選んできた道がすべてにおいて正しかったことを意味する。そして、失敗がないという過去のデータは、未来への信頼となる。 「西谷くん」目の前の白衣姿の男、吾妻進(あずますすむ)が、その名前を呼ぶ。「124568×365は?」  途端に頭の中で歯車が回転し始める。やがて八桁の数字が浮かんだ。  「4546730ですね」  「なるほど、やはりそのくらい値段がかかるのか。ありがとう」  「はい」  吾妻は礼を言いながらその場にかがみこみ、廊下に敷かれたカーペットの撤去にかかる。  西谷はあらためて室内を見回した。  二人がいるのは温室である。温度が高めに設定されているため、部屋に入った途端、生暖かい空気が体を包み込む。  温室に入ると真ん中に狭い廊下が進んでいて、吾妻がしまおうとしているカーペットは、そこに敷かれていた。  そしてその廊下を挟む形で両端に設けられているのは、色とりどりの花を咲かす花壇である。  アラマンダ、スイレン、アサガオ、グズマニア、と、植えてある花は気持ちの悪いほどに偏っているが、不思議とそれぞれの色素が絶妙なハーモニーを生み出している。  西谷はその美しさに見惚れ、思わず手を伸ばした。 「おっと、触らないでくれよ」すかさず吾妻がそれを制する。「そのゾーンにあるのは今朝届いたばかりのやつなんだ」  吾妻はそう言って右手で西谷を払う。そのとき、彼の手首にはめられた腕時計が、窓からそそぐ光に反射した。 「すみません」西谷はおざなりに謝罪をすると、右手に握った紙を見る。「領収書、ここ置いときますね」 「ああ、ありがとう」  入口の近くに設けられた机の上に、領収書を置く。  「それで、この新しいカーペットは、どうします?」    「そうだなあ、とりあえず箱から取り出して傍に置いといてくれ」  「わかりました」  言われた通り、西谷は温室まで引きずってきた段ボール箱の開封にかかった。  二人がいま行っているのは、温室に敷かれている年季の入ったカーペットの交換作業だ。カーペットを交換するのは、実に数年ぶりらしい。  吾妻が古い方ののカーペットを端に寄せ、そして西谷が新しいのものを、古びた床に敷く。  「わざわざ手伝いに来てもらってすまないね、西谷くん」吾妻はそう言って、汗をぬぐうような仕草を見せた。「さて、じゃあ母屋に戻って、またお茶でもするかい」  「いや、やめときます」  「そうか」  吾妻がこちらに背を向けている間に、西谷は両手に手袋をはめた。さらにポケットに手を入れ、バタフライナイフの所在を確かめる。  準備は万端だ。  「先生」  そう呼びかけると、吾妻は笑顔でこちらを振り返る。  西谷はすかさず彼の目の前まで迫り、そして右手に持ったナイフで、彼の首を真一文字に切った。  返り血が吾妻の白衣を真っ赤に染め、西谷の服にも付着する。そして両端の花々が揺れた。  吾妻は驚いた表情で自らの首を左手で抑える。そして「どうして……」と呟いたのちに、真後ろへ倒れた。  汚れ一つなかった新品のカーペットのが、吾妻の頭部がある傍らだけ、に染まる。  危険信号——  西谷は頭を振り、その言葉を抹殺した。  すぐさま動かなくなった吾妻の左手に、血で汚れたナイフを握らせる。彼の利き手が左であることは、すでに知っている。  そして立ち上がると、温室を見渡した。証拠は一切残していない。  誰もいない温室で、首を切り裂かれた死体。手にはナイフ。ほかに不自然な点がなければ、間違いなく自殺として処理される。  そうしているうちに、吾妻の首から流れる血は、カーペットの黄色を侵食していく。  まるで砂時計が終焉までの時間をカウントダウンするかのように、赤く滲んでゆく。  砂が完全に落ちてしまうまでに、一刻も早くこの場を離れなければならない。西谷は、そんな謎の焦燥感に駆られ、入口まで歩みを進ませた。  癖でポケットに手を入れる。 「あ」  そこで西谷は、あることに気づいた。 
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