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「そもそも、なぜ冬城さんがここにいるんですか?」
二人の歩く吊り橋が風に揺れている。
少し前を行く冬城を睨みながら、西谷は切り出した。
冬城は体幹がないのか、一度よろけてから西谷を振り向く。
「すでに耳に届いていると思いますが、蒼海高校に勤める小島久美さんが亡くなりました」
「......ああ、そんな連絡が学校からありました。来週からまた休校になる、と」
吾妻の死から、話がシフトしたらしい。
いずれも西谷が死に追いやったことには変わらないのだが。
「小島さんは、どうやらトリカブトという猛毒の植物を口に入れたことによって、致死性の不整脈を起こして亡くなったらしいんですがね。そのトリカブトは、夕食の鍋の中に入れてありました」
「なら事故死ですか」
「しかしそう考えると、とてつもない偶然が起きてしまうことになります。この短期間で、学校の関係者が二人も亡くなるというね。警察としては、この二つの死を関連づけざるを得ないんです。しかし、現場にとあるものを発見して、我々は無事に腑に落ちました」冬城は嬉しそうに指を一本掲げる。「遺書です」
「遺書......ですか。そこには何が?」
「本文は極めて抽象的だったのですが、行間を読むと、すなわち小島さんは吾妻さんのことを愛していた。そして、吾妻さんの死にショックを受けて自殺を図った。うむ、筋は通ってますね。吾妻さんの死が招いた、極めて残酷な結末です。これで事件は一件落着」
「そうでしたか。なら——」
「しかしそう言うわけには行かなくなりました」
冬城のその言葉に、西谷は思わず足を止めた。
そう言うわけには行かなくなった? だとすれば、西谷はまた何かミスをしてしまったのだというのだろうか。
「これは、極めて知的な犯行ですね。先ほども言ったように、これが事故死なら我々はその死因を疑わざるを得ない。短期間の間に、同じ学校で二人も死者が出ていることになりますからね。そのうちの一つは殺人だ。そのあとに誰かがまた亡くなったとなると、当然ながら事件性が疑われますね。だから犯人は、自らあえて先の事件と関連づけたんです。捏造した遺書に自殺の動機を綴ることによって、吾妻さんの死が小島さんの死を誘発したのだというストーリーをでっちあげ、逆転の発想で警察の疑いの目を避けることができたわけだ。相変わらず見事ですねえ」
冬城はそんな知能犯に対して、怒りどころか一種の興奮を覚えているようだった。
腕を組みながら、にこやかな顔で右上を眺める。
「そう断言するからには、それ相応の証拠があるわけですね?」
西谷がそう促すと、案の定彼は大きく頷いた。
「犯人も惜しかったですね。もう少しで完全犯罪が成立するところだったのに。しかし、犯人はとある重大なミスを犯してしいました」
「重大なミス、ですか」
彼は再び指を一本掲げる。
「小島さんの家を少し探ってみました。そうすると、廊下の窓辺にトリカブトらしき植物が、何枚か葉を毟り取られた状態で置かれていました」
「はい」
「しかし一方でゴミ箱を漁ってみると、とある園芸専門店のレシートが捨てられていました。そこには、『ニリンソウ』と書かれていまして」
「はい」
嫌な可能性が脳裏をよぎり、心の中で叫びそうになる。
「調べてみたところ、ニリンソウとトリカブトの葉っぱはとても酷似しているらしいですね。見分けるにはその花を観察するしかないようですが、今の時期、どちらとも花は咲きません。そうですよね、西谷さん」
「はい。相当な玄人じゃなきゃ、見分けはつきませんね」
「あなたは、付きますか?」
「まあ、ある程度の知識はあるので」
「なるほど」冬城の視線を強く感じる。「話を戻しましょう。レシートを頼りに家の中でニリンソウを探してみたのですが、残念ながら見つかりませんでした。しかし、そっくりな植物ならあります。トリカブトです」
「......」
「そこから想像できる可能性はこうです。その園芸専門店では、トリカブトを見間違えてニリンソウとして販売されていた。そしてそれを小島さんが購入し、家で大切に育てていた......。となると、ある結論が導き出せます」
「そういうことですか」西谷はあえて制した。「小島先生は、あれがトリカブトだとは知らなかった。ニリンソウと思って育てていたからね」
「その通り。だから、小島先生が、あのトリカブトの葉を口に入れて自殺するはずがないのですよ。
また、鍋に入れてあったわけですから、小島さんがトリカブトをニリンソウだと勘違いして誤食した、という可能性も生まれますが、それは現場に残された遺書が否定してくれます」
どうやら、また取り返しのつかないミスをしてしまったらしい。西谷は後悔でその場にくずおれそうになる。
そうか。遺書の偽装工作は余計だったか。あれがなければ——
なぜそんな単純なことに、気づかなかったのだ。
「つまりこれは、自殺を装った殺人だと言いたいんですね」
「はい」
「犯人は、ニリンソウとトリカブトの見分けがつくような、有識者、と」
「そうなりますね」
どこかで鶯の声が響く。
西谷の混沌とした胸中とは裏腹に周りの景色はのんびりとしていて、その牧歌的な空気がいやおうなく西谷を混乱へ陥れた。
「.....動機は何だと?」
「口封じでしょうか。犯人が吾妻さんも殺害しているのなら、実に単純明快ですね」
冬城の推理は、見事に的中していた。
別段飛躍した、驚天動地な論理の展開など、彼は必要としていない。まさに単純な推理の段階を踏むだけで、彼は着実に真相へ近づいていっている。
まるで蕾がゆっくりと時間をかけて花開くように——
「なら、ボクは犯人ではないですね」
二人は吊り橋を渡り終え、熱帯雨林のように湿った木々の生い茂る山道を進んだ。
「ほう?」
「吾妻先生の死には、ボクは完璧なアリバイがありますから」
「ああ、そうでしたね」
冬城は今思い出したかのように、そう呟いた。まさか、今までそのことを忘れていて、ここまで西谷と歩いてきたのだろうか。
だとしたら今までの彼の推理は、ただの春蛙秋蝉だ。
「それであらためて訊きますけど、なぜ冬城さんは今日ここに?」
「ここって?」
「このY***山に」
「ああ、小島さんが生前、ここに訪れていたので、いったい何があるのかと思いまして」
「小島先生が、ここに?」
あの支配欲に溺れた女がここに来ていた理由は一つしかない。
西谷がかつて犯した殺人の真相を暴くためだ。
無論、結果的に彼女は真相を暴いてしまったわけだが。
「ええ。というわけで、僕もY***山について調べてみたんですがね、昔ここで小学生の少年が飛び降り自殺を図っていまして」
「......ああ」
「おや、ご存知で?」
「彼とは同級生でした」
調べればわかるような嘘を吐いたところで、リスクが高まるだけだ。
「へぇ、そうでしたか。まあ、いいや」冬城は飛んできた蚊を、容赦なく両手で潰した。「しかし、吾妻さんと小島さんを殺害した犯人を、何としてでも見つけ出さなければ」
「応援してますよ」
「いかなる事件においても、必ず犯人は、自分が犯人だと示す証拠をどこかに残していると思うんです」
冬城はいきなり、そんな訳の分からないことを言った。
「絶対残していないと思いますけどね」
西谷は何故か無性に反論したくなり、そう言う。
「おや、なぜそう思うんです?」
「吾妻先生と小島先生を殺害した犯人は、きっとサイコパスの部類に入る人物でしょう。雑踏に紛れ、じっと息を潜めているはずだ。今もね」西谷は口に笑みを湛えて続ける。「T・ペルタトゥムという植物があります。それは、普段は普通の植物と変わらない、光合成を行う植物なんです。しかし、栄養分が不足すると、一時的に食虫植物となり、肉食化する。
一方でこの事件の犯人は、日常では影に紛れて目立たないが、いざと言うときは容赦なく牙を剥き出しにし、人を殺害する。まさに、T・ペルタトゥムのようだと思いませんか」
西谷は言い終えると、誇らしげな顔で冬城に顔を向けた。
彼は無表情だった。
西谷は息を呑んだ。
冷徹。
彼こそが今西谷が話した通りの、正真正銘のサイコパスなのではあるまいか。そんな気さえしてくる。
「ひとつ、確認したいことがあるのですが」
彼はすでにいつもの笑顔を取り戻していた。
「何でもどうぞ」
西谷の中身はすでにこの男に踏み荒らされ、いかなることも拒む気になれなかった。
「あなたが犯人ではないことを承知で訊きますが」視界が赤く歪む。「二十七日、すなわち吾妻さんの亡くなった日の午前中、吾妻さんの家へ行きましたね?」
「何を根拠に?」
何度目かわからない混乱。そこでようやく、自分はこの男に翻弄されていることに気づいた。かつて西谷があまたの人にしてきたように。
しかし、吾妻の家までの防犯カメラはすべて把握し、映りこまないように努めたはずだ。
にもかかわらず、なぜ冬城はそのことを知っているのだ。
「決め手は、二十七日の午前八時五分に、吾妻さんの携帯からあなたの携帯へ、電話がかけられていることでした。前にも話しましたが、あなたが電話に出なかったにもかかわらず、吾妻さんが留守電を残していないこと、あれ以降連絡をしていないことは不自然であり、それに対してあなたが何も反応をしていないこともしかり、ですね」
「だからそれは——」
「ああ、結構です」冬城は笑いを含ませながら西谷を制した。「あれから考えてみました、一度電話はあったが、それ以降どちらとも連絡を取り合わないという状況はどのようなときに起こり得るか。そこで、吾妻さんの家の状況を思いました。吾妻さんの家は、とても散らかっていました。一度物を失くしたら見つからないほどにね」
「……」
「あなたは午前中、吾妻さんの家に来ていた。しかしあの散らかった部屋の中で、あなたは携帯を失くしてしまったんです。部屋を片付ければ見つかるでしょうが、そんな暇はない。そこであなたは、吾妻さんに、自分の携帯に電話をかけてもらったのです。そうして着信音が鳴ることで、あなたは自分の携帯を見つけ出すことができた。どうでしょうか」
「……」
頭の中で、この心理戦の行く末を想像する。
ここで西谷が認めるときのメリットと、認めないときのメリット。
より西谷が優勢になるためには、どちらが好ましいか?
そうだ。自分には鉄壁のアリバイがあるのだ。
「事実なら、ここで認めない手はないと思いますが?」
「分かりました。認めましょう。今まで言う必要がないと思ったので黙っていましたが、あの日の午前中は、吾妻先生の家にいました」
「そこでは吾妻さんと何を?」
「ただ植物について語らっていただけです。それが楽しかったんです」
「それは具体的に、何時から何時までで?」
「七時から二時間くらい、ですかね」西谷は落ち着いた口調で答えた。「冬城さんの推理の通り、その途中、ボクが携帯をなくして吾妻さんに電話をしてもらったのも事実です」
「やはり、そうでしたか」冬城はにっこりと微笑む。「正直に話していただきありがとうございます」
一瞬、冬城がぐらりと傾いて見えた。
自分は動揺しているのか。いや、そんなはずがない。
その情報を聞き出したところで、なんの得にもならないことを彼は気づいていない。
そして西谷は、何一つとして自分が犯人だと示す証拠を残していない。
事件はこのまま迷宮入りすることだろう。
「もういいですか」
「満足です」
いつかのように彼が呼び止めてこないことを祈りながら、西谷は踵を返して元の道へ歩き出した。
絵梨の待つレストランへ戻ろう。
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