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 「わざわざこの時間に、ここまで来ていただき、ありがとうございます」  「なんの真似ですか」  「事件が解決する見込みなので、ご報告をしようと」  見覚えのある部屋。吾妻の温室だ。  死体と花壇は撤収されているものの、それ以外のものは西谷が吾妻を殺害したときの景色と、それほど変わっていなかった。  時刻は四時半。  とっくに眠気は覚めているが、こんな早朝に西谷を呼び出す冬城は、やはり人の心を持っていないらしい。  彼は西谷を温室へ招くと、自分はさらに奥へ進み、やがて真ん中の通路の中程で西谷を振り返った。  「それは嬉しい限りです。早速、教えてもらいましょうか」西谷は、黄色いカーペットの上に立つ冬城に、挑戦的な視線を向ける。「犯人は誰なんです?」  すると彼は、躊躇することなく、まっすぐと西谷に指を向けた。  「あなたですよ。あなたが殺したんです、西谷望さん——」  その言葉に、西谷は少なからず動揺した。しかし、すぐに我に返り、思わず笑みをこぼす。  「まだ寝ぼけているんですか? 早朝にわざわざここに来てまで、戯言を聞くつもりはないんですが」  「ついでに小島久美さんも殺害しましたね。そして小学二年生のころ、同級生の深山優太さんを殺害したのもあなたです」  「だから、戯言は——」  「もちろん僕も、根も葉もない妄言を言うためだけにあなたを呼び寄せたわけではあまりせん。今からそれを証明します」  証明? そんなことができるはずない。  何せ、西谷は現場に犯人が自分だと示す証拠を何一つとして残していないのだから。確かにいくつかのミスはしてしまったが、しかしそれが自分の存在に繋がることは決してない。  「そもそも、吾妻先生の死が自殺ではなく殺人だと言う証拠さえないじゃないですか」  「おや、そこからでしたか」どういうことだ。「では、まず吾妻さんが自殺ではなく何者かによって殺されたのだと断言できる理由を説明しましょう」  「......」  そこまで自信満々に言われては、西谷も黙って見るしかなかった。  冬城は小さく頷いてからコートを翻すと、通路を奥へ進んだ。  「僕が現場を訪れて最初に疑問に思ったのは、返り血の飛び方でした」彼はそう語り出す。「ああ、あなたには説明していませんでしたね。まあ、犯人のあなたが一番わかっていると思いますが」  「根拠もないことを」  口でそう反論するが、しかし冬城の思惑通りにことが進んでいるのはよく分かっていた。そして、それがとてつもなく屈辱的であった。  「吾妻さんの死体は、このカーペットの敷かれた通路の真ん中で、奥に顔を向けて仰向けに倒れていました。首を真一文字に掻っ切られて。 さて、ここで現場に付着した血の状況を確認しましょう。まず、彼の下に敷かれていた新品のカーペットは、吾妻さんの首元から流れる血で汚れていました。そして彼の両端に設けられた花壇は、吾妻さんの死体を起点にコンパスで描いたように、花びらに扇状に血が飛び散っていました。しかしそこで不可解な点が生じます」  「不可解な点?」  西谷は声に出して、現場の状況をあらためて思い描く。  カーペットに染みた血。そして両端の花壇に飛び散った血。吾妻の首から流れ出た血が花びらに付着したのだから、そこに不整合はないはずだ。  いや——  そこで西谷は、いまさらながらあることに気がついた。まさか、そんなことを——  「ようやく気づきましたか」冬城は西谷の顔を伺って、ニヤリと笑った。「そう、カーペットが綺麗すぎるんです。確かに吾妻さんの首から流れ出た血によって一部分は汚れていますが、しかしあるはずの血痕がないんですよ。  両端にある花壇には返り血が飛び散ったはずなのに、んです? 返り血が付着するはずの部分が、綺麗なまま、そこだけ血が途切れているのです」 「......」  西谷は無言のまま、吾妻を殺害したときの光景を回想していた。実際に今その現場にいるからか、その景色が鮮明に蘇った。  ——西谷はすかさず彼の目の前まで迫り、そして右手に持ったナイフで、彼の首を真一文字に切った。返り血が西谷の服に付着する。両端の花々が揺れた。  ああ、そうだった。  「ではなぜ返り血がカーペットの部分だけ途切れているのか。簡単です。吾妻さんの首から血が飛び散ったとき、吾妻さんのですよ。その人物が、代わりに返り血を浴びたんです。そして、カーペットは綺麗なまま。 吾妻さんが死んだとき、その場には少なくとももう一人の人間がいた。つまりこれは自殺などではなく、紛れもない殺人事件なのです」  「そうでしたか」  あまりに幼稚すぎる失態に、過去の自分を殺したくなった。こんなにも初歩的なミスを、この自分がしていたとは。  「これで納得いただけました?」  「そうですね。反論はないです。しかし——」西谷は歯を食いしばる。「忘れているかもしれませんが、ボクにはアリバイがある。たとえこれが殺人だとしても、ボクには吾妻先生を殺すことはできません」  「それができるんですよ」  いつものように、『ああ、そうでした!』と阿呆面で苦笑する冬城を期待したが、そういうわけにはいかなかった。  彼の目つきは、まるで今までのものとは違う。千里眼のように、全てを見透かすそうとするかのような目で、西谷を射ていた。  心臓がどくん、と脈打つ。  しかし、まだ手はある。  「そうですか、じゃあ説明してもらいましょうか。鉄壁のアリバイを持つボクでも吾妻先生を殺せる方法とやらを」  「そろそろ認めてくれればありがたいんですが......」彼はそう言って一瞬顔を曇らせてから、すぐにいつもの笑顔に戻して続けた。「分かりました。では、崩してみましょう。あなたのアリバイを。  このトリックは、人間の心理をうまく利用した、かなり狡猾なものですね。まあ、僕は現場に着いた瞬間おおかた見抜いてしまったのですが。  このアリバイトリックにおいて肝になるのは、当然ながらここに敷かれているカーペットです。そして、温室の入り口そばの机に置かれたレシート、開封されたばかりらしき段ボール」  「......」  冬城は西谷を通り過ぎ、実際に机の方に歩いた。  「レシートには、この黄色いカーペットが二十七日の十三時二十五分に購入されたことが示されており、さらにその足元に開封されたばかりの段ボールが置かれていました」冬城はそこにレシートと段ボールの幻想を見ているように、何かを見つめている。「そこで我々警察は、ある錯覚に囚われる。  そのレシートと段ボールは、温室に敷かれたカーペットのものなのだと。つまり、この新品のカーペットは二十七日の十三時二十五分に購入されたばかりのものなのだと。だとすれば、その上で死んでいた吾妻さんは十三時二十五分以降に死んだことになる、と。そう結論づけてしまった。しかしご想像の通り、それは大きな勘違いでした。これが、犯人の罠なのです」 「そうですか」 「犯人は同じ黄色いカーペットを、二つ用意していたんです。一つは現場に敷く用。そしてもう一つはレシートを現場に置くためのものです。  つまり、犯人の行動はこうなります。二十七日の午前中、まずあらかじめ用意していたカーペットを抱えて吾妻さんのいる温室に訪れる。そしてそれを温室に敷いたうえで、彼を殺害します。ここで肝なのが、カーペットに血を付着させることです。そうすれば、吾妻さんはカーペットのうえで死んだのだとより印象づけることができます。  だから犯人は、吾妻さんの首をナイフで掻っ切るという、血の流れやすい殺し方を選んだのです。  さて、そこでひと段落。やがて時刻が十三時二十五分を回ったところで店で新たなカーペットを購入する。そのとき、しっかりとレシートをもらいます。購入したカーペットは、必要ないのですぐに処分したのでしょう。  準備を整えた犯人は、そのまま蒼海高校に遅れて登校しました。あの店は蒼海高校の近くにあるので、そこから徒歩で行けば十三時五十分には高校にたどり着くことができます。  犯人が次に行動に出たのは、翌日の夕方です。これは、ちょうど死亡推定時刻から外れる時間を選んだうえの判断でしょう。犯人は再び吾妻さんの温室を訪れ、レシートを置いていきました。こうすれば、まるで温室に敷かれたカーペットこそが十三時二十五分に購入されたものなのだと勘違いさせることができますからね。  こうして犯人はアリバイを持つことに成功させたわけです。  そして、犯人の条件としてはまず防犯カメラに映り込まなくてはいけないので、吾妻さんと容姿が似ていること。十三時二十五分の五十五分後、十四時二十分以降のアリバイが用意されていること。かつ午前中のアリバイがない、さらにいえば午前中に吾妻さんの家を訪ねていた人物ということになります。  以上の条件から、犯人はあなたです」
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