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「自殺ですね」  海崎(うみさき)警察署刑事課の警部補である水戸葵(みとあおい)は、現場の状況を見てすぐにそう断言した。  趣味で設置したのか、母屋の隣にしつらえられた温室。部屋に入りすぐ正面に死体が倒れていた。  木曜日の昼下がり。  何となく気分が沈んでいるこの時分でさえ容赦なく凄惨な事件は起きる。  あらためて現場を見渡す。  正面にまっすぐ続く黄色い廊下。  その中ほどに、首元が赤く染まった白衣を着た若い男が、首から血を流し倒れている。  左手には血がべっとりと付着したナイフ。  真新しいように見える黄色いカーペットは、死体の首元の部分だけが流れ出る血で真っ赤に滲んでいた。  そして入口の脇を見れば、開封されたばかりらしき段ボールも転がっている。表面には『スノードーム』と、有名なインテリアショップのロゴが入っていた。  死体の左右に目を向けると、そこには花壇がある。植物を育てるための温室なのだから当然だが、花壇に咲き誇る花々は、主の死を弔うかのようだった。  その花々にも血は飛び散っており、死体から見てちょうど扇形に広がっている。返り血だとすぐに分かった。 「水戸ちゃん、ガイシャの身元は?」  後ろから気楽な声で訊いてくるのは、甲府(こうふ)警部だ。痩せぎすで高身長という、効率の悪い体型が特徴である。 「はい、名前は吾妻進、二十八歳。この家に一人暮らしです。死因は首を切ったことによる出血性ショック。第一発見者によれば、蒼海(そうかい)高校で生物を教えているとのことです」 「ほうほう……。蒼海高校といえば、県内でもトップの頭いい高校だよねえ」 「全国でもトップレベルかと」  蒼海高校、その名前の荘厳さの通り、全国でもトップレベルの偏差値を誇る名門の男子校だ。 「へえ……。そんな学校で教師をやってるってことはさ、生徒たちよりも頭よかったりするわけだよね。残念だね」 「まあ、そうですね」  立場上、生徒よりも常に上でなければならない、というプレッシャーで押しつぶされ、いやもしくは、実際に生徒にそのことを詰られて自殺、というところだろうか。  とにかく、この男が自殺にまで至る素因は、案外身近にありそうである。  「それで、死亡推定時刻は?」  「ええと」水戸は確認のため、メモ帳を開いた。「鑑識によれば、死後かなり時間が経過しているらしく、一昨日、つまり六月二十七日に死亡したとみて間違いないようですね」  「ってことは、ガイシャが発見されるまで二日もかかったの? 仕事行かなくてもよかったのかな?」  甲府は愛嬌のあるつぶらな瞳を、さらに丸くさせて言う。  「ええ。というのも、水戸さんは二十八日まで休養を理由に欠勤していたらしいのです。しかし今日、二十九日になっても学校に吾妻さんが来ない、電話も出ない、ということで教員の一人がここに訪れたところ、温室に」  「玄関は開いていたんだっけ?」  「いえ、閉まっていました。温室の窓の鍵は開いていましたが……」そこで水戸は、彼の質問の不自然さに気づく。「え、もしかして事件性を疑ってます?」  「可能性は考慮するべきだよね。万が一ってこともあるじゃない?」彼は難しそうに顔をしかめる。「窓が開いてたってことなら、そこから逃走っていう手もあるわけだし」  「し、しかし、殺人だとしたら、こんな大胆に——」  被害者の首を掻っ切ってそれを自殺に見せかけるという、これほどまでに堂々とした犯行は考えられなかった。自らのあふれる自信を誇示するかのような……。  あまりに非現実な可能性を、水戸は躊躇なく打ち消した。  「そういえば、今日は新人が研修で来るとか言ってたような」  そこで甲府警部が呟くように言う。  「ああ、そうでしたね。名前は確か、冬城拾壱郎(とうじょうじゅういちろう)とかいう……」  かなり強烈な名前だったので、すぐに覚えてしまった。この大仰な名からして、水戸は尊大で生意気な男を想像していた。  いったい、実際はどんな輩なのか。水戸は気になっている。  そのとき、ドカンと大きな音が温室に響いたかと思うと、足音がこちらに近づいてきた。振り向くと、シルクハットをかぶった、甲府警部を凌駕する高身長の男が笑顔でこちらを見下ろしていた。  「いやはや、遅れてしまいました」   シルクハットを一度とると、たいして乱れていない髪を撫でつける。  もともと彫りが深い顔立ちなのだろうが、頬の肉がほとんどないせいか、それが際立って見える。なおかつ肌が透き通るように白かった。  その栄養失調を疑わせる姿に、水戸は病的な印象を受けた。 「え、誰ですか?」 謎の人物の登場に、水戸は戸惑う。一方の男は、水戸の表情を見てあたふたし始める。 「お、遅れたのはわざとなわけではないのですよ。現場に向かう途中、偶然本屋を見つけたものですから、ついつい気を取られて気づいたら——」 「いやいやそういうことじゃなくて……」  まずこの男はいったい誰なのだ?   彼をよく観察したら、彼はスーツの上に分厚いコートをまとっている。この季節にコート。頭に乗ったシルクハットなんかは、もはやどの季節にも不似合いだ。  こんな奇抜な格好をした男は、水戸の頭の中の人物名鑑には存在しない。  「もしかして、君が冬城くんかい?」  甲府警部が、そんな意味の分からない戯言を言う。  「はい!」  男は嬉しそうにうなずいた。その返事と同時に、水戸は一瞬めまいを起こした。  彼が、冬城拾壱郎という新人? 想像していた姿と差がありすぎて、理解が追い付かない。  というか、新人を名乗る人物がこんな奇矯な姿をしていることなど、誰も予測できるはずがない。  「とりあえず、私は警部の甲府。で、彼女が警部補の水戸くん」  警部の手の動きにつられて、冬城の顔が動く。水戸と目が合うと、彼はにっこりと微笑んだ。  「研修に来た冬城拾壱郎といいます。以後、お見知りおきを」冬城は、警察官らしい敬礼ではなく、腰を折るタイプの礼をした。「ええと……山梨さんと、茨城さんでしたっけ」  「ははははははは!」  冬城の間違いに、警部が愉快に笑った。  甲府と山梨、水戸と茨城。近いには近いけれど、勝手に県庁所在地が県名に格上げされるのはそれほど面白くない。  一方の冬城は、何がおかしいのかわからないという表情でとりあえず二人に握手を求めた。  「ああ、あと——」握手を終えた冬城は、ふと思い出したように手をポケットに突っ込み、一枚の紙きれを見せた。「入口の机にこんなものが」  見ると、それは何かの領収書のようだった。  『室内用カーペット \¥4000』と書かれていた。  水戸は、死体の下に敷かれたカーペットに目を向ける。  目立った汚れはなく、新品のものだ。このレシートはこのカーペットを購入した際のものだろう。 「大事な証拠品じゃないですか。勝手にポケットに入れないでください」  水戸が叱正するも、警部は穏やかな表情で笑い、冬城は「それより見てくださいよ」と、見事にスルーした。  「この領収書に、十三時二十五分と書かれていますね。ということは、この方はそれ以降に殺害されたのではないでしょうか」  「ああ、なるほどね」  甲府警部がうなずいた。  水戸は再びカーペットに視線を映す。彼はこの新品のマットの上で血を流して死んでいる。  ということは、冬城が言っていることは確かに正しい。  いや——  「今、『殺害された』と言いました?」  「え? 誰がです?」  「あなたです」  「ああ、僕か」よくわからないやりとりだ。「言いましたよ」  「現場の状況からして、吾妻さんが自殺なのは一目瞭然ですが」  「吾妻さんと言うのですか」冬城は一度顔から笑顔を消し、顎を撫でた。「どう見てもでは?」  研修中の新人の言動に、水戸は鼻を鳴らす。根も葉もない戯言に付き合っている暇はない。  「なぜそう思うんだい?」  甲府警部が、冬城の言葉に興味を抱いた様子で、そう訊いた。  それに対して冬城は、なおも不思議そうな顔で、水戸を見つめている。  「いやあ、僕が正しいと思うんですけどねえ」  「……は?」  喧嘩を売っているのだろうか。  馬鹿にされた気になって冬城を睨むも、彼はすぐに踵を返して温室を出て行ってしまった。  「なかなか面白そうな人だねえ」  非常識な男の後ろ姿を、甲府警部は期待のまなざしで見つめる。  「あんな人が、刑事になれるとは思いません」  冬城の背中に投げつけるように、水戸はそう言い放った。
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