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 冬城は西谷をゆっくりと指差した。  花々のない、空っぽの温室内に湿った空気が漂う。    窓に水滴が伝う。  「......なるほど」西谷の色覚は、まだ狂っていない。安全である証拠だ。「なかなか面白い推理ですね」  「ありがとうございます。比較的単純なトリックでした。まあ、このトリックは、あくまでこれが自殺ではなく殺人だと見破られたときの予防線のようなものですからねえ。  ただ、これが予防線を張るためだけのトリックだと考えると、かなり手の込んだ仕掛けとも言えます」  「——しかしあなたは、勘違いをしているようだ」そう言うと、冬城はきょとんとした。「確かにこのボクでも犯行可能だということはわかりました。  しかし、ボクが犯行可能であることを示したところで、ボクが犯人だという証拠にはならないんですよ」  アリバイ崩しは、ただ自分でも犯行が可能だったということを示すだけであって、自分が犯人だという絶対的な根拠ではないのだ。  冬城をじっと見つめる。『あぁ、確かにそうでした!』と阿呆面で放つのを、西谷は待ち構えていた。  さあ、言え——  「あはははははは!」冬城は声を出して笑った。刹那、視界が真っ赤に染まる。「馬鹿ですね。僕は現場に訪れた時点ですでにアリバイトリックは考えついていた、と言いませんでしたっけ?  アリバイのトリックを説明するだけなら、とっくにしていましたよ。なぜ今まで僕がここまでじれったくしていたか、気づかないんですか? あなたが犯人だという決定的な証拠を、ずっと探していたんです」 「え?」  そんなことができるはずない。  自分が失言をした覚えもないし、現場に重大な証拠を残した記憶もない。 「簡単な思考です」冬城はそう言いながら温室を出た。西谷はその場を動かない。彼の声だけが室内に響く。「あなたは二十七日の午前中、吾妻さんの家を訪れたと告白してくれました。ならばあとは簡単。吾妻さんが、、いま説明したアリバイトリックが使われたことになり、必然的に犯人はそれが可能な人物、西谷さん、あなたということになります」  入口から冬城のシルクハットが見えた。 「そんな証拠あるはずがない」 「僕も最初はそう思いました。吾妻さんが午前中に殺されたということを示すなんて、そんな都合のいい証拠があるはずない、と。でもありました」  相変わらず彼は温室の外でガサガサと物音を立てている。いったい、何をするつもりなのだろうか。  視界に赤い絵の具が落とされる。それだけではない。形容しがたいような色が、次々と水槽の中に落ちていく。  何が起きているのだ。 「そ、そんなもの——」 「キーとなるものは、返り血です。現場の状況からわかる通り、現場にはかなりの量の返り血がいたるところに付着していた。そこで僕は考えました。  午前中はあるけれど、午後には自動的になくなるものに血痕が付着していたら、どうだろうか、と。それは、吾妻さんが午前中に殺されたという証明になります」 「そんなもの、あるはずが——」  そのとき、再び殺害シーンがよみがえった。  吾妻の首から噴き出した血が、西谷を濡らし、花壇の花を濡らす。  花壇の花……?  そのとき、全身が粟立つような感覚を覚えた。  蘇る、あのときの冬城の言葉。  ——一定の時間が経てば変化するものって、意外と身近に多いですよねえ。  そんな、あり得ない。  「ようやく、気づきましたか。その都合のいいものが、現場に存在していたことに」そう言いながら、冬城は再び温室に入ってきた。を胸に抱えて。「午前中にはあるけれど、午後にはなくなるもの。一見、謎謎のようですが、そんな摩訶不思議なものが現場にはありました。  ですよ」  冬城の腕の中で揺れる、真っ白なアサガオ。それは、花びらを閉じて眠っていた。 「そんな、馬鹿な——」 「こちら、かつて温室の花壇に咲いていたアサガオです。  あなたが教えてくれました。アサガオは日没から十時間後に花を咲かす、と。今の時期、日没はだいたい七時ごろ。実際に実験をしてみると、その十時間後の五時にアサガオは蕾を開き、そして九時ごろにその蕾を閉じました。  このアサガオに血痕がついていれば、先ほど言った論理で吾妻さんは午前中に殺されたことになり、すなわちあなたが殺したということになるのです」 「な、何を言ってるんだ......」まともに呂律が回らない。「仮に付着していたとしても、吾妻先生が死んだときに付着したとは限らないじゃないか! 元から付いていた可能性だって——」  奇しくも、あのときの吾妻の声が蘇る。  ——そのゾーンにあるのは今朝届いたばかりのやつなんだ。 「このアサガオは、二十七日の朝に届けられたばかりのものです。血痕が吾妻さんのものかどうかは、すぐに分かります。そして、吾妻さんの体には首元以外に外傷はありませんでした」  「......」  なぜだ......。  すべてが、この瞬間のために仕掛けられていたかのように、物語が進んでいく。  最初から、すべて決まっていたのか。   「さて、納得していただけたなら、あとは待つだけです」冬城は今までで一番楽しそうな笑みを浮かべて、すでに開きかけているアサガオを西谷の前に突き出した。「一緒に見守りましょう。アサガオが花開くのを——」                                                                  ———了———
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