今宵

1/2
前へ
/34ページ
次へ

今宵

 剣闘場はあくまで成人済みの腕に覚えのある方々が己の技術を競う場です。ということで、面接会にて正式に参加資格を認められた者達は会場を出て、試合の禁止事項をまとめた書類一式が渡されます。後は各自、予選会当日までに書類を熟読し、禁止事項を把握した上で試合に臨みます。参加者一同集まって開会を宣言する式典、なんていちいち開催されません。お子様を相手にした教育機関ではないのですから。  ところが。ランセル殿は「言葉が話せない、文字が書けない、こちらからの言葉かけは理解出来る」というところまでは確実なのですが。渡された書類は読めるのか? わたくしは、それが不確定だと思いました。なので予選会の前日に伝令を出し、一度、剣闘場の事務室へお越しいただくことにしました。  ……後になって振り返れば、白々しいお話です。ランセル殿は弟達の手記をじっと見つめていて、場面に応じて必要なページをこちらに提示することが出来るのだから、「文字を読むことは出来る」のだって考えればわかること。 「だから、わたくしは聞こえの良い口実をつけて……あなたと個人的にお会いしたかっただけなのでしょうね」  ああ、思い出すと誠にお恥ずかしい。  今宵、初めてふたりきりの夜を過ごすにあたって、わたくしは彼に、この十年間……わたくしが一方的に見つめてきた心境を話し、伝えていました。側仕えの使用人以外は立ち入ることのない寝所に、意中の殿方とふたりきり。そんな状況よりも、わたくしはこれまでの自分の振る舞いによる羞恥心の方が勝っていて。思わず火照り始めた頬を、潤んできた瞳を隠したくて、両手を顔で覆ってしまいました。彼はもちろん言葉はなく、わたくしの手首をそっとはがして膝元に下ろしてしまいます。滲んだ目で見上げると、彼は苦笑して、静かに首を横に振っています。  そうです。いくらはしたなく恥ずかしくとも、わたくしは彼に話すことをやめるわけにはいきません。今宵、このような時間をいただけたのはひとえに。「何も話せない彼とわたくしが、気持ちを通わせられるのか否か確かめるため」なのですから。  そういえば、あの日も同じ仕草をされていましたね。お時間をいただきありがとうございます、とわたくしが頭を下げると、彼は慌てたように首をぷるぷると振りました。現在と比較するなら遥かにあか抜けない、幼さの残るその動き。印象的だったもので、今でも昨日のことのように思い出せてしまいます。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加