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タカコは信号待ちの車の中で、一つ息を吐いた。彼女の向かう先は自宅から車で一時間ほど離れた彼女の実家だ。
昨年母を亡くし、誰も暮らす人がいなくなったその家へ行くのは気が重い。彼女には兄が一人いるが、実家の遺品整理は全て彼女が行っていた。
掃除をしていないために春になっても枯葉がまだ落ちている駐車場に、タカコは車を止めた。二階建の、余計な装飾がほとんどない四角い家だ。その玄関の扉を開けると、変わらない実家の匂いがぷんとする。彼女は無造作に靴を脱いだ。
タカコはまずキッチンに入り、荷物を置くとすぐに自分でお茶を入れて、食堂の椅子に腰をかけた。そして、彼女はこれから始まる気の進まない作業のために、自分を奮い立たせるように静かにお茶を啜った。
実家の遺品の整理に関しては、タカコが自ら申し出た。兄夫婦も手伝うと言ったが、断った。兄夫婦は遠方に住んでいたし、これは自分一人で行わなければ何か悪い事が起きる、というある強い予感が彼女にはあったからだった。
「よいしょ」
そう小さくつぶやいて、タカコは腰を上げた。
「どんどん捨てよう。お兄ちゃんにもそう言われてるし」
自分を元気づけるようにそう言うと、タカコはぐっと伸びをして一階のある部屋に向かった。そこは母の部屋だった。
タカコが実家の遺品整理を始めてから、半年が経っていた。兄からは急がなくていいよ、と言われていたが、彼女は早く済ませてしまいたかった。この家に愛着は特になかったし、ほとんどいる事が無いのに水道代や光熱費を払い続けるのがひどく勿体ないと感じていた。そして何よりも、タカコが感じた「予感」の正体を早く知りたかった。
母よりも五年前に亡くなった二階の父の部屋はもう済ませた。彼が大事にしていた旅行先で買ってくるたくさんの民芸品は、タカコがいいなと思ったものでも構わず全て処分した。彼女の夫に手伝ってもらって、部屋の全ての家具も外に出し、それらも全て業者の人に持って行ってもらった。がらんどうになった部屋を見てタカコは非常な満足感を覚えた。
こんな調子でかつて兄と自分が使用していた部屋も綺麗に片づけて二階は割と早く終わった。しかしタカコは分かっていた。本丸は一階の母の部屋だという事を。
母の部屋は和室で日当たりのよい南西に位置している。タカコが入ると南と西の二つの窓から日光が差し込んで明るかった。西側の窓は薄手のレースのカーテンが引いてあるだけで夕方は西日が強く差し込むのだが、母はそのままにしていた。眩しさよりも部屋が暗くなるのを嫌がっていた。
部屋は几帳面だった母らしく綺麗に片付いている。元々は夫婦の寝室だったのを、父が亡くなったのを機に少しずつ家具や物を増やし続けて今に至るので、タカコにとっては全く思い入れのない、この家の中ではまるで一つの異空間のように感じる場所だった。
この部屋は一度、母が亡くなったすぐ後に兄がこの部屋に入り、遺産相続に関係する何かがないかを調べている。その時は特に兄からこの部屋に関して気になることは聞いていなかった。
その事があるので、本来であればそれほど気にする必要はないのだが、タカコには何かが引っ掛かっていた。そのためにこの部屋を片付けるのを今まで後回しにして来たのだ。
意を決して、タカコは初めてこの部屋を調べ始めた。箪笥の上に置かれた引出しの付いた小さな棚から、鏡台、押し入れの中などを一通り調べたが、特に変わったものは出てこなかった。
タカコはホッと息を吐いた。しかし胸の中の嫌な感じが抜けない。彼女の視界にふと箪笥が目に入った。そこには母の衣類しか入っていないはずだ。兄も調べている。だが、タカコは引き付けられるように箪笥の前に歩いて行った。
引出しを開けると予想通り中は母の衣類だけだ。整理整頓されて収まっている。タカコは上から順番に開けていって、最後に一番下の引出しを引いた。そこには何着かの和服が専用の和紙に包まれて置かれていた。和服を一枚、二枚とめくっていくと、四着目の和服の入った和紙が、わずかに不自然な膨らみ方をしていた。中を見てみると、そこには沢山の未開封の封筒が着物の上に置かれていた。
「なに?これ…」
その封筒の宛先は全て父だった。裏を返すと送り主はこれも全て母からだった。見慣れた母の字だ。宛先も送り主の住所もこの家の住所だ。そして、全ての手紙には消印が押されていて、見ると時期は結婚後のある数年に集中している。
タカコの鼓動が急激に早くなった。嫌な予感しかしない。結婚後すでに同居しているのに自分の夫に手紙?実際に送られていて、しかもすべて未開封…。
タカコは鋏を持ってきて、恐る恐るその中の一通の封を切った。
中には女性的な可愛らしい柄の入った数枚の便箋が入っていた。その内容は、母が男性と二人で出かけた際の詳細が、これでもかというくらい細かく綴られていた。とても楽しそうに。その相手は、父とは違う名前の男性だった。
その知らない男の名前を見た瞬間、タカコは発作的に便箋から目を背け、急いで手紙を封筒に戻した。立ち上がってキッチンへ行き、スーパーのレジ袋を持ってきてその中にすべての封筒を押し込んだ。袋をきつく縛って、その後入念に手を洗った。
「なんで、こんな事を…」
父はトラックの運転手だった。休みの日は不規則だ。彼がこの手紙を開封するリスクを知っていて、母はこの手紙を自分の家に出したのだ。わざわざ封筒に自分の名前を書いて。そして彼が手紙を見ないように、届いたらすぐに郵便受けから自分が受け取る。そのスリルを楽しんでいたのだろう。そんな母の姿を想像して、タカコはしばらくキッチンに呆然と立ち尽くした。嫌な予感は的中したのだった。
手紙の入ったレジ袋を自分のリュックに入れてタカコは家を出て車に乗った。これを一刻も早く処分しなければいけない。明日は自分の住む地域では可燃ごみの日。明日には処分できる。誰にも見せてはいけない…。
家に帰ると、タカコの夫が彼女を玄関まで迎えた。タカコの表情を見るなり、彼は驚いた顔をして、
「どうした?何かあった?」
タカコは心配そうに自分を見つめる彼を見てから、靴を脱いでそのまま彼の胸に顔を埋めた。
「…大丈夫か?」
「うん…」
「実家でなんかあったのか?」
「なにもないよ。早く終わらせようと、ちょっと頑張りすぎて疲れただけ」
「…おまえはすぐ一つの事に集中しすぎるから」
「そうだよね、ごめん」
彼は優しくタカコを抱きしめた。その胸の中で彼女は昔を思い出していた。
父はある時期、母以外の女性と関係があった。実際にその姿を見てはいないが、タカコにはそれが分かった。父が家に帰って来た時、父からいつもと違う匂いがする日があったから。恐らく兄は気付いていないだろう。しかし、同じ女性であり、妻であった母は間違いなく気付いていた。キッチンで一人静かに泣く母をタカコは何度か目撃している。そして、その時期は手紙の消印の時期と一致している…。
タカコは母にも相手がいたとは思っていない。彼女の性格的に、それができる勇気はない。手紙の内容は恐らく架空のものだろう。それが彼女ができる夫への背一杯の復讐だったのだ。
「もういいよ、ありがとう」
そう言ってタカコは夫から離れた。彼の目をじっと見て心の中で、
「私達は大丈夫だよね」
そう呟いた。
彼は微笑して自分の妻を見つめている。
完
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