第51話 岸谷

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第51話 岸谷

今はひとりになりたいと玖月が言うので、高坂家からの帰り道、トボトボとひとりで駅まで歩く。玖月はひと足先にさっさと帰ってしまった。玖月の帰る先は実家だ。 秘書から連絡もあったが、やっぱり会社に戻る必要はないと言われ、ただただ岸谷は家に帰るだけ。家に帰ってもひとりだとわかっているから、足取りも重くなる。 帰宅途中で雨が降ってきた。運がいいのか悪いのか、カバンの中にはあの派手な紫色の折りたたみ傘が入っていた。秘書が貸してくれたものだ。 ため息をつきながら、紫の折りたたみ傘を広げると大小のネコの絵が傘の内側から目に入る。遠目からも目を引く派手な傘だが、今はもう何も気にならない。ただ、ため息だけが出てしまう。 家族経営について、酷い言い方をしてしまった。売り言葉に買い言葉のようだが、言ってしまった自分の言葉は取り消せない。 玖月に向かって言ったわけではないが、侮辱したことには変わりない。玖月は誇りを持って仕事をしている。最近は特に生き生きと働いていると感じる。その仕事と玖月が所属している会社を、侮辱してしまった。 岸谷が会社を立ち上げて間もない頃、高坂の息子だと知られると、親の七光りだと言われたり、やけにチヤホヤして近寄ってくる人がいた。 そんな奴らは大抵、岸谷の会社は高坂が作ったものだと勘違いしており、金持ちの道楽で子会社を作り、そこのバカ息子が経営も知らないのに社長になったと思っていた。 それが嫌で、周りには高坂との関係を隠し、がむしゃらに自分の力で会社を大きくした。だから人一倍、思い込みや先入観が嫌いだったはず。自分がそう見られるのが嫌だったからだ。 それなのに、勝手な思い込みで家族経営はバカ息子がやることだなんて言ってしまった。そんな奴もいるだろうが、玖月のように誇りを持って家族と一緒に仕事をしている人もいる。 それに、家族経営とかそんなの本当は関係ない。関係なしで誇りを持って仕事をしている人がほとんどのはずだ。 謝ろう。 口から出た言葉は取り消せないが、謝って、もう一度やり直してもらうチャンスをもらおう。岸谷はそう思っていた。 「あ…スーパー、行くんだっけか…」 気がついたらいつものスーパーまで来ていた。電車に乗って帰ってきたのに、その間の道のりが曖昧なほどだ。考えながら帰ってきたからだろう。 スーパーの中に入るが、何を買うのかわからない。結局、今の自分は玖月がいないとスーパーに入る資格もないんだなと岸谷は肩を落としていた。 スーパーでは陳列している棚を、ぼけっと眺める。カレーを作る気にもならない、夜ご飯を食べる気にもならない。酒なんて飲む気にさえならない。 どうしよう。何を買うか… 「岸谷さん!久しぶりですね」 後ろから声をかけられる。名前を呼ばれたので話しかけられたとわかる。振り向くと、制服を着た店員の芦野だった。 「ああ…芦野くん…久しぶり」 「げっ!どうしたんですか?岸谷さん?何?なんかあったんですか?あ、また何か作るのに困ってるとか?」 岸谷を見るなり芦野は思いっきり顔を顰めて、顔を覗き込んできた。 スーパーでは買うものはわからない、他人には顔を覗き込まれ心配される。なんだかもう全てがうまくいかないように思えてきた。 芦野からは何か探し物なのかと、続けて聞かれるが首を振る。 「何を買っていいかわからない…」 「わからないって…何を作るんですか?まいったな、海斗は本社だからここにはいないんですよ。あっ、玖月さんに聞けば?あれ?そういえば今日は一緒じゃないんですか?もしかして、買い物頼まれたとか?」 「違う…玖月を悲しませてしまった。もうどうしていいかわからない…」 「えっ?なに、喧嘩?喧嘩したんですか?落ち込んでる?岸谷さんがなんかやっちゃったの?」 喧嘩ではないが、返事もせず頷きもせずそのまま俯いていたら芦野は勝手に解釈したようだ。 「喧嘩かぁ…ふんふん、だからそんなに落ち込んでるんですね。岸谷さんも一般人みたいなことしてんだなぁ。じゃあ、俺が悪かったって謝って、仲直りすればいいじゃないですか。ほら、いつものように好きだ!玖月!って言えばいいんですよ。いつもみたいにしつこいくらいに」 「お前…俺のことそんな目で見てた?玖月、好きだ、なんて人前で言ったことないぞ?それになんだよ、しつこくって…何で知ってんだよ」 芦野はわかったような顔でアドバイスをしてくるが、こいつらの前でそんな態度をしたことはない。しかし、芦野は『いつもみたいに』と連発でいつもの岸谷はこうだと教えてくれている。 「ええーっ!岸谷さん、ヤバ…声に出して言ってましたよ、玖月!好きだ!って、このスーパーの中で。なんで知ってるかって…それは、まぁ気になって海斗と一緒に影から見てたから知ってたんですけど…でも、しつこいくらいにいつもイチャイチャしてるじゃないですか。それが玖月さんは岸谷さんの好きなところだと思うけどなぁ」 よく聞くと失礼なことを言っているが、少し気分が上昇した。玖月を傷つけてしまったが、謝って挽回しようと思う。芦野の言う通り、しつこいのが俺のいいところかもしれないと岸谷は考えを新たにした。 「なんか…うん、ありがとう。だいぶ失礼なこと言われたと思うけど。そうだよな、謝って、またやり直ししてもらう。許してもらえるまで謝って、それで、好きだって伝えるよ。だけど、こんな時何を買っていいかはわからない。どうしようかな…腹減ってないし」 「ああ、よかった!そうですよ、元気出してください。それにいつもみたいに、好きだ好きだって伝えていれば、仲直りできますよ。買い物は…えっと、俺もよくわかんないですけど、玖月さんの好きなものをいっぱい買って帰ればいいんじゃないですか?」 「好きなものか…」 玖月のように美味い料理をひょいひょいと作ることは出来ない。それに岸谷が作るものは褒められたものではないし、今日は玖月がいないから作ってあげる必要もないし、とまた少し気分が沈む。だけど、玖月の好きなものか…と色々と思い出していく。 「あっ!アイス。アイスが最近気に入ってた」 日本酒と一緒に食べたバニラアイスを思い出す。 「どんなのかわかりますか?探しますよ。あっ、そうだ、海斗に電話して聞いてみますから、ちょっと待っててください!」 芦野がバタバタと走り出し、携帯電話を手にしてすぐに戻ってきた。 「岸谷さん、わかりましたよ。バニラアイスでしょ?海斗が多分それだって言ってる。こっちにあるから、来てください」 冷凍コーナーに案内された。見覚えのあるバニラアイスが陳列している。電話が繋がってるようで、海斗の声が漏れて芦野との会話が耳に入る。 「…うん、今めっちゃカゴに入れようとしてる…うん、え?それも?わかった、ちょっと待って」 玖月と一緒に食べたアイスだ。玖月は好きだと言っていたアイスだ。いくつ買えばいいかわからないが、カゴいっぱいに入れよう、そう考えていた。 「ちょっと岸谷さん!待ってください。冷凍庫入るか?って海斗が言ってます。それと、このアイスのシリーズのチョコ味があるのでこれも玖月さん好きなはずって言ってます。こっちのチョコ味はまだ玖月さん食べたことないはずだから、買って帰るといいって言ってる。って、聞いてる?岸谷さん?とりあえず、海斗が代わってくれって言ってますから」 ほら、と芦野に携帯電話を差し出された。 「もしもし…」と、岸谷が言うと電話の向こうで笑い声が聞こえた。 「岸谷さん?海斗です。玖月さんと喧嘩したんだって?ウケるんですけど…岸谷さんほどの大人でも喧嘩して落ち込んだりするんですね」 「…うるせぇな、喧嘩じゃねぇよ。落ち込んでるのは本当だけど」 「あははっ…冷凍庫に入る分だけ買っていかないとまた玖月さんに怒られるよ?そんなにいっぱい買わないでいいから。あと、そのシリーズでチョコレート味があるから、そっちも買うといいよ。チョコレート味のアイスは、赤ワインと合うって玖月さんに伝えといて。そんで、そのアイスをまたSNSにアップしてよ。岸谷さんと玖月さんがアップすると売り上げが上がるから。コメントには、ごめんなさいってつければいいじゃん。頑張ってよ、岸谷さん」 海斗から買い物のアドバイスをもらい、その通りに従う。軽く言い、終始笑い声を含ませているのが気に入らなかったが、そこにはあえて突っ込まず、じゃあなと言って電話切り芦野に返した。 「…なあ、俺のSNS知ってんの?」 芦野に聞くと「知ってますよ」と、何でそんな当たり前のこと聞くんだという顔をされた。こっちが呆気にとられるほどだった。 それでも言われた通りアイスだけを買い、芦野に礼を言って家に帰ってきた。 ひとりの家は暗くて冷たい。床も部屋も全部冷えているようだ。よくもまあ以前はこんなところにひとりで住んでいたなと感心するほど、ひとりは寂しくて、つらい。 家に帰って、玖月はいなくてもルーティンは崩さず、いつものように風呂に入ってから、リビングでくつろぐ。携帯をいじっていたら、時間がかなり経っていた。気がついたら深夜になっている。 さっき、冷凍庫に入れる前にアイスを並べて写真を撮っていたのを見返す。 携帯をいじりながら、その写真をSNSにアップする。コメントは…『ごめん』とだけ入れた。海斗に言われた通りになり、ちょっと癪に触るが、本当にごめんとだけしか今は言葉が見つからない。 声が聞きたいなと思うが、さっき怒らせてしまったばかりだから、電話をかけて出てくれなかったり、繋がらなかったらと思うと、今よりもっと落ち込むのが目に見えている。こんな時、自分は弱いと感じる。 それに、あの時のようにまた電話がずっと繋がらないままとなったら、考えただけでもどうにかなりそうな程だった。トラウマとは酷いものだ。 こんな女々しく考えるなんてらしくないと思うも、落ち込むのが嫌で電話をかけるのを尻込みしてしまう。 そう考えていた時、電話がかかってきた。 「…もしもし、優佑さん?」 「玖月!よかった…電話くれたんだな、ありがとう。あのな玖月、今日のことだけど、」 だらっとソファに寝そべっていたが、玖月からの電話で飛び起きた。ソファにきちんと座り直す。 「ごめんね。子供みたいな態度とっちゃった。勝手に家を空けてごめんなさい」 玖月の方から謝られてしまった。プイッと膨れて家を出るのはよくなかったと言っている。 「違う!そんなのいいよ、悪いのは俺なんだし。本当にごめん、誇りを持って仕事をしている玖月に嫌な思いをさせたとわかってる。許して欲しい。俺が勝手に親の脛齧りみたいな奴を想像して言っちゃったんだ」 「ううん、違う。家族経営とか何とかはもう別にいいんだ。そういうダメな人もいるって僕もわかってるし、冷静になって考えたら、優佑さんが言いたいことはわかったから。それより、高坂さんのところを廃業にしろって言った方がショックで…高坂さんも何であんな言い方なんだろうって、後から考えると思うことあるんだけど。その時の感情で…っていうか、カッとなるのはわかるけど…お互い後には引けないようになって欲しくなくて…」 「ああ、そうだったのか…ごめんな。俺もカッときちゃったからなぁ。親父とはもう一度ちゃんと話をするよ。玖月、酷いこと言ったけど…許してくれる?」 「怒ってないよ…」 よかった。玖月と連絡が取れて、すぐに謝ることができた。あんなにぐずぐずと考えてないで連絡すればよかった。 「優佑さん?SNS見たよ」 「ああーっ!アイスか?アイスだろ?」 「ふふふ…あんなにたくさん買って、冷凍庫に入りました?」 「ギリ入った。カゴいっぱいに買おうとしたら、芦野と海斗に冷凍庫に入る分だけにしろって言われた。それと、あのシリーズでチョコレート味があるんだけど、それも玖月が好きなはずって海斗に言われたから買っておいた」 玖月が嬉しそうな声を出してくれている。電話だからダイレクトに耳に声が伝わる。玖月が愛おしい。 「…迎えに行ってもいい?」 「うん…予定通り、土曜日に帰る」 「土曜日か…明後日だな。長いなぁ…」 「ふふふ、すぐですよ。明後日だから」 「電話が繋がってよかった。本当は俺からかけるつもりだったんだけど…もし、繋がらなかったらって、あの時みたいにずっと玖月と連絡とれなかったらって思った。もう、あんな思いをするのは嫌だよ、なぁ」 玖月がまだ家事代行として岸谷の家に住み込みで仕事をしていた頃、玖月の兄の怒りに触れ、玖月と連絡が取れなくなってしまったことがある。 あの時のようなことは二度とあって欲しくない。そう思ったからこそ、最後は独り言のように女々しく呟いてしまった。かなり弱ってるなと我ながら呆れる。 「優佑さん!ごめん!本当にごめんね。どうしよう…わがままで自分勝手な行動しちゃった。そんなに落ち込んでるなんて思わなかったから、ごめんなさい」 岸谷の声を聞いて察したのか、今度は玖月が慌て始めている。 「あはは、大丈夫だよ。俺が悪かったんだし、本当にごめんな、玖月。でも声も聞けたし、連絡が取れれば安心だから。土曜日に迎えに行くよ。だけど、明日も電話してもいい?毎日声は聞きたい。好きだよって、愛してるよって伝えたい」 「ううーっ…ごめん」 仲直りというのだろうか、こんな時にそばにいられないのは、つらい。玖月も同じような気持ちだろうか、そんな声を出している。次に会えたら今日の分も抱きしめようと誓う。 「あはは、もう平気だって。明後日、楽しみだな会えるの。やっぱりひとりになると寂しいもんだな。だからもうちょっと話してもいい?出来れば寝落ちするまで話したいけど、そりゃ無理か」 「優佑さん、ベッド?今どこにいる?」 「ん?ソファだよ。なんか、ベッドに行く気がしないから、今日はここで寝ようかなって思ってさ」 「え…明日も仕事でしょ?ベッド行った方がいいよ」 「いや、うん…大丈夫だよ。それよりさ、今日芦野が言ってたけど、俺ってあのスーパーで玖月!好きだ!って声に出して言ってんだってな。知らなかった」 「ええーっ、本当に?言われてるような…そ、そうだね、確かに、言われてるかも…何か、いつものことで気にしてなかった。あはは、可笑しいね」 「気持ちが高まると言いたくなるのはあるけど、声に出してんだな、それでさ、」 今日も一番大切な時間を過ごすことが出来た。それは一日の終わりに二人で話をすることだ。
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