だれかの幸せ

1/2
前へ
/13ページ
次へ

だれかの幸せ

今日も美しい音色に引き寄せられ、私は病室から廊下へと歩き始める。ピアノを弾く彼の後ろ姿に、今日はいつもより色が多い。それは彼が、自分の服を着ているから。 「退院なのね、おめでとう」 彼は振り返ると、一瞬私に遠慮して最低限の言葉を選んだ。 「うん、ありがとう」 そう言って、またピアノを弾き始めた。私は少し離れた椅子にちょこんと座り、聴いていた。 『♪~...♪*゚~♪』 弾き終わってパタンと蓋を閉じる彼に、私は自分のことをなんとなく話した。 「わたしはね、いつ退院できるかわかんないんだ。退院したってまたすぐ入院する事が多いの。10年後はね、生きてるかもわかんないんだって」 彼はきっとなんて言ったらいいかわからないだろうけれど、どうしても伝えておきたかったから、私は続けた。 「ピアノ上手ね、ずっと聴いていたいのに」 少しのあいだ、考え込ませてしまった。 やっと見つけた言葉で、彼が答える。 「それなら僕はずっと、ピアノ弾くよ!」 「……え?」 「どこにいたって弾いていれば、君に届くかもしれない!聴こえるかもしれない、ね?」 「じゃ、じゃあ、私はずっと絵を描く!絵だけは得意なんだッ!」 「……ずっと?」 私の口から"ずっと"という言葉が出てくる事が想定外だった彼は一瞬目を丸くしたが、私の前向きな返事に笑顔になった。 「ずっとだよ?ね、そうしよう!」 「うん!」 なんだかこの約束を守ったら、また会えるような気がしたんだ。私たちは、笑顔でお別れした。 今まで自分のことで精一杯だった私が、初めて他のだれかの幸せな日々を願った。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加