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だれかの幸せ
今日も美しい音色に引き寄せられ、私は病室から廊下へと歩き始める。ピアノを弾く彼の後ろ姿に、今日はいつもより色が多い。それは彼が、自分の服を着ているから。
「退院なのね、おめでとう」
彼は振り返ると、一瞬私に遠慮して最低限の言葉を選んだ。
「うん、ありがとう」
そう言って、またピアノを弾き始めた。私は少し離れた椅子にちょこんと座り、聴いていた。
『♪~...♪*゚~♪』
弾き終わってパタンと蓋を閉じる彼に、私は自分のことをなんとなく話した。
「わたしはね、いつ退院できるかわかんないんだ。退院したってまたすぐ入院する事が多いの。10年後はね、生きてるかもわかんないんだって」
彼はきっとなんて言ったらいいかわからないだろうけれど、どうしても伝えておきたかったから、私は続けた。
「ピアノ上手ね、ずっと聴いていたいのに」
少しのあいだ、考え込ませてしまった。
やっと見つけた言葉で、彼が答える。
「それなら僕はずっと、ピアノ弾くよ!」
「……え?」
「どこにいたって弾いていれば、君に届くかもしれない!聴こえるかもしれない、ね?」
「じゃ、じゃあ、私はずっと絵を描く!絵だけは得意なんだッ!」
「……ずっと?」
私の口から"ずっと"という言葉が出てくる事が想定外だった彼は一瞬目を丸くしたが、私の前向きな返事に笑顔になった。
「ずっとだよ?ね、そうしよう!」
「うん!」
なんだかこの約束を守ったら、また会えるような気がしたんだ。私たちは、笑顔でお別れした。
今まで自分のことで精一杯だった私が、初めて他のだれかの幸せな日々を願った。
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