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さぁ――……と、風の音がする。
湿った風とともに、別のなにかが耳に触れた。
青年は口に運びかけていた土器から視線をあげ、半蔀のほうに目をやった。
「どうした? 晴明」
晴明の目の前で、同じく土器を口に運んでいた男――、藤原冬真がひとつ瞬きをした。
「いま――、誰かの声がしなかったか?」
「いや、風の音じゃないのか?」
耳を澄ましてみたが、冬真の言うとおり、風の音しか聞こえては来なかった。
晴明に聞こえたそれは、確かに〝声〟というよりも、〝音に〟近い。
時刻は酉の正刻(※午後十八時)。
一条大路は一条戻橋近く、そこに晴明の邸はある。この日は、数年前にある事件で知り合って以来の仲、藤原冬真がやって来ていた。
水無月(※六月)――。
長雨の時季に入ると、心まで薄雲が覆ったように鬱々とした気分になる。妻戸も開いているというのに、湿気と盆地特有の暑さに狩衣は着ていられず、烏帽子も外した晴明であった。
対し冬真は紗綾形文様の直垂と、彼は最初から冠などは被っては来なかった。
本来は常に烏帽子を着用するのが成人男性の身嗜みだが、冬真は名門貴族の息子であるにも関わらず、そうした常識にはとらわれたくないらしい。
大内裏では左近衛府中将であり、藤原南家の次期当主。ただ性格は、少々がさつではあるが。
今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原一門。
藤原四兄弟を祖として、四家に分かれた藤原家は、現在は関白・藤原頼房を当主とする嫡流の北家、冬真の父にして右大臣・藤原兼久を当主とする傍流の南家となったが、この間に枝分かれしていた者を含めれば、都を歩けば藤原なにがしという人に当たるというほど、藤原姓は多いだろう。
晴明は己と冬真の関係に、おかしな取り合わせだと自嘲的に嗤った。
かたや名門貴族の息子、かたや妖の血を引きながら陰陽師に就いている自分。油断すれば冥がりに沈む身だというのに――。
冥がりは心に宿した闇、人に非ざるモノが棲む世界。両者は違うようで、ある日突然結びつく。ただ晴明の場合は、妖の血を半分引いているために混ざってしまったが。
冬真はそんなものは気にしないというが、妖という存在を忌み嫌う人間はほとんどである。子供の頃は自分は人間だと言っても、周りの人間たちは信じてはくれなかった。
いつか人を喰らう化生になる――と、思っているらしい。
さすがに現在は、そうした奇異の目と蔑みの声は受け流す余裕は出来たが。
そんな自分が、こうして人と酒を呑み交わしているのだ。これが、嗤わずにいられるだろうか。
「また誰か死ぬと思うか?」
唐突に話を冬真に振られ、晴明は胡乱に目を細めた。
「酒の肴に、血生臭い話か?」
「そう思うのは俺だけじゃないと思うぞ? 王都の真ん中で髑髏が転がっているんだ。そのうち、穢れの都になるってな」
晴明は顔を顰めた。
王都に髑髏が転がっている――、冬真の話は冗談ではない。現実に起きていることなのだ。何者に喰われ、骨だけにされる――、そんな怪死が。
晴明は、蛙の化生のことを思い出していた。
彼が棲む池の畔で、蛟が人を喰っていたという。
王都で人を骸にしたのは、その蛟なのだろうか。だが何故か、人を喰ったであろうモノを誰も見てはいないという。見たのは蛙の化生だけだ。
「そういえばお前、関白さまに呼ばれたそうじゃないか? 藤壺の件か?」
「ああ……」
関白・藤原頼房の命は、内裏を彷徨く幽鬼を確かめて祓えというもの。
「お前を呼んだと云うことは、よほど痛くもない腹を探られたくないらしいな」
冬真がそう言って、笑みを零した。
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